三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

(旧記事)「人に教えることができなければ、本当に理解しているとはいえない」わけではない

よく「人に教えることができなければ、本当に理解しているとはいえない」と言う。

 

いや、人に教えることができなくたって、理解していることはある。

 

「人に教えることができなければ、本当に理解していると言えない」というのは、間違いではない。


ただ、誤解を招く言い方ではある。


まるっきり間違っていることを言っているわけでもないので、誤解を誤解のままにしていても疑問を持つことは少ないだろう。

 

「人に教える」ということについて、また、「理解する」ということについて考えてみようと思う。

 


まず、「人に教える」ということについて。

 

「人に教える」ためには、自分の中から”教えたい情報”をアウトプットしなれればならない。

 

教える方法は、文章に書いたり話して説明したり、いろいろあるが、ここでいう「人に教える」は言葉を話して説明することを示しているのだろう。

 

”話す”ということは、情報を言葉で、口で説明する。そのとき、情報は必ず一つ一つ、直列に伝わっていく。

 

二つ以上の情報が、寸分違わず同時に発信されることはない。(一つの情報で、相手が二つ以上のものを理解する場合もあるが、あくまで、発信した情報は一つだ)

 

こうなってくると、重要なのは、どの情報をどの順番で伝えるかだ。

 

どの情報をどの順番で発信するのが効果的なのか、これを考えるために情報の整理が行われる。

 

頭の中に無秩序に点在していた情報を整理してまとめるのだ。

 

「人に教える」ために行われる整理が、結果として「理解を深める」ことになる。

 

では、「人に教えることができる」とはつまり、どういうことなのか。

 

自分が考えて理解した筋道を、人に説明できるということだ。

 

よく言う「人に教えることが~」というのは、自分の考えた筋道なんだから人に説明できるのは当然でしょ、というわけだ。


人に説明できないってことは、筋道もなにもないんだし、理解できてないってことね、となる。

 

ここで「理解する」ということの誤解が生じている。

 


なんとなく理解したけれど、言葉で説明しようと思ったらできなかった、という経験はないだろうか。


すると、理解したつもりになっていただけで理解していなかったんだな、と思う。

 

そうではない。

 

なんとなく理解した、と思った瞬間、確かに理解しているのだ。

 

「なんとなく理解した」というのは、迷い込んだジャングルを抜け出した状態。


「では、言葉で説明してください」=どこをどう通って抜け出したのですか?説明してください。ということになる。

 

説明はおろか、自分で辿ることもできない。

 

しかし、どこをどう通って抜け出したのか説明ができなくても、ジャングルを抜け出したのは確かだ。


同じように、言葉で説明できなくたって、理解はしているのだ。

 

しかし「なんとなく理解した」という状態は不安定だ。またジャングルに迷いこんでしまったら、抜け出すのに苦労する。


そのためには、どこをどう通れば抜け出せるのか道を確立しなければならない。

 

そのためには、ここの大きな木を右に曲がっただの、ここの滝を左に行っただの、情報を整理しなければならない。

 

情報を整理し、道を確立することが、「理解を深める」ということになる。

 

そして、整理をするのに、一番手っ取り早いのが「人に教える」もしくは「人に教えることを前提に考える」ことだ。

 

 


人に教えることができなければ、本当に理解しているとは言えない、わけじゃない。

 

しかし、なんとなく理解しただけでは、不安定で忘れてしまうかもしれない。

 

「なんとなく理解した」を「本当に理解した」に昇格させるためには、「人に教える」のが一番だ。

 

なぜなら、「人に教える」ためには情報を整理しなけらばならないからだ。

 

「人に教えることができなければ、本当に理解しているとは言えない」という話の本質はここにある。