作風の変遷
小学生の頃から物語のようなものや未完の作品を生み出してきたが、本格的に執筆を始めたのは2015年10月からである。
友人(冬太朗)が描いた「魚田」という変なキャライラストがあって、その二次創作を書いてる腐女子がpixiv上にいる。という回りくどいボケのために書いた「魚田喫茶」シリーズがすべての始まりだ。
このキッカケを友人Sに話したら、「あんま言わないほうがいいんじゃない」と言われたけど、本当にこれがキッカケなのだ。
次に、冬太朗を驚かせたい一心で、一日か二日で「雨ふれば灯る」っていう、ショートホラーを書いて、その流れで掌編をいくつか書いた。
その頃は、比喩の扱いがほんとにわからなかったのと、「小説家になる!」という創作理論本で紹介されていた「丸山健二」氏の、初期作品に憧れたこともあって、シンプルで飾り気のない文体で書いていた。
シンプルな文体故に生まれる奥行きみたいなものの表現に挑んていた。
比喩や、文学的表現、文体に凝りすぎた結果、空回りしてスベルってのが、初心者にありがちなミスなのでは、という仮説もあった。
純文学を書きたい初心者は、自分の感性を過信した比喩、文学的表現、文体で書きがちだろうなって、根拠なしに思ってて、僕はそうならないようにしようと思った。
初めてちゃんと書いた作品である「無理です」(あきたの文芸2016)は比喩、文学的表現ゼロ。ストーリーと、普通の文の組み合わせて勝負していた。
練習のために、あえてコテコテの比喩を使ったり、文体を意図的に変えたりはしていたけど、その流れはつい最近まで続いている。
ちなみに、「巣立ち」(長塚節文学賞)は、初期作品のシンプル文体に、数年後それっぽい比喩を意味分かんないなりに等間隔に挿入して、クライマックスを書き直したものだ。
でも、いつの間にか比喩のコツが分かってきて、前作「伴侶」(三田文学新人賞結果まち)では、いつもより比喩をとりいれ、いかにも”表現”です。みたいな文章を書いた。
そして、今書いてるやつは、比喩も文学的表現もフルスロットルで書いてる。
楽しい!
今でも、シンプル文体から入ったのは正解だったと思ってる。
それっぽい技や派手な大技に憧れてスベる初心者あるあるはそれによって回避できて、地味な基礎練から入ったって感じ。
地方文学賞から攻略するっていう、全体戦略のためにも、凝りすぎた文体は減点要素だと思ってた。
でも最近思ったんだ。いつまで初心者のつもりでいるんだって。
執筆歴七年。遅筆なりに、短いのもあわせて22作品書いた。
勝とうとすると、負ける。でも、勝とうとしなきゃ勝てない。
負けない戦略は存在するが、負けないだけで勝てるわけではない。
これらは、あらゆることに通じることだ。
シンプル文体は、負けないだけで、勝てる戦略だとは思わないんだ。
小説において、何か勝ちで何が負けかってのは、すごく曖昧だけど。
僕はスベってもいいから、負けてもいいから、比喩、文学的表現に挑むことにした。
そしたら、ずっと窮屈に書いてたことに、改めて気付いた。
前にも日記で書いたことあるけど、地方文学賞のために本当に書きたいようには書いてなかったんだなー。