三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

第一回あたらよ文学賞 佳作/第40回太宰治賞応募

第一回あたらよ文学賞において、佳作をいただきました。
作品は文芸ムック「あたらよ」創刊号に掲載されます。

note.com

 

全国の書店陳列に先んじて、11/11文学フリマ【う-4】で販売されます。
予約販売は既に開始されています。

eyedear.thebase.in

 

僕の作品「まゆどじょう」は、奇妙な生態を持つまゆどじょうを巡る物語です。
二次選考時「冒頭からエロスと寂寥感がエグい」という講評をいただきました。
なんと、あたらよ文学賞は一次選考時から最終選考まで、計三回講評をいただけるのです。

 

さて、僕は今まで第一幕として地方文学賞を主戦場としてきました。
第一幕は地方文学賞で、基礎体力づくり。第二幕は中央の賞(デビューできる賞)に応募。第三幕はデビュー後。
と、位置づけています。

 

昨年の三田文学賞に応募、落選した作品「伴侶」を堺に、第二幕に入ったと認識しています。(まあ、僕の心持ち一つなんですが)
本当は、地方文学賞を1~2個受賞して、執筆開始から3~4年目には第二幕に突入する予定だったんですが、思いのほか良い結果に恵まれず、第二幕に入るまで7年を要してしまいました。
第二幕突入も、なんだかなし崩し的で、「大賞はないけど優秀賞とか最終候補とかあるし、いっか」って感じでした。

 

受賞コメントにもあったように、第一幕では、地方文学賞の舞台で評価されるよう、とにかく個性を消して、無味乾燥な文体で、小さくまとまった作品になるように書いてきました。
なので正直、第一幕で書いた作品は、胸を張って自分の作品だとは言えません。例外は、第三回文芸思潮新人賞で入選をいただいた「某の欲望」ぐらいかな。

第三回文芸思潮新人賞 入選 - 三度の飯と、考えごと


とは言うものの、元々、地方文学賞の受賞と基礎体力づくりを目的としていたわけなので、計画どおりに事は進んでいたんです。自分で自分に不完全燃焼を強いていただけで。
ただ、第一幕のおかげで、基礎体力はついたし、型の把握にも役立ちました。僕は小説を書くのが下手なので、こんな風に遠回りが必要だったのです。

 

そして、「伴侶」を堺に、個性の解放を意識しました。
当然、そんな書き方は初めてだったので、良い作品にはならなりませんでした。全然解放できてなかったし。
そして、次の作品「最後の子種」で、ようやく「これが自分の作品だ」と思える作品を書くことができました。そういえば、「最後の子種」の最初の仮タイトルが「解放」だったな。偶然。
評価されるように、ではなく、我を評価せよ、というノリで書きました。
当初は、群像新人賞に応募予定でしたが、太宰治文学賞に出すつもりです。約100/1000作品が一次通過するので、フィードバックを得ることを優先します。
どう評価されるか分かりませんが、僕の作品のなかでは、確実に一番良い作品です。

 

次の長編はどうしようかなーと模索している最中、「第一回あたらよ文学賞」の存在を知りました。第一回だし、多くても100ぐらいの応募数だろうなー、ワンチャンあるかなーと思って、蓋を開けたら応募数は496!勘弁してくれよ、と思いました。
短めの作品でも応募できる賞だったので、もう評価とか関係なくやりたいことやりまくった作品書いたろ!と生まれたのが「まゆどじょう」でした。
「最後の子種」は、自分で課した制約やモデルとした物語の起伏などもあって、やりたいようにやったわけではありませんでした。
「まゆどじょう」は、ほんと、構成も何も気にせず書きました。
そんな作品が評価されたわけなので、非常に実りのあるフィードバックでした。

 

商業デビューとは言わないんだろうと思いますが、晴れて「商業誌に作品が載った人」となったわけです。
僕が参加している牧野楠葉さんの文筆家ディスコードで、昨年商業デビューした作品がすばるの編集者の目に留まり、小説すばるにエッセイを掲載された人がいました。そうやって仕事貰っていくのか、すげーと思ったのと同時に、僕のレベルじゃまだそうはならないだろうと思いました。
「まゆどじょう」を読んで、「是非うちの雑誌に!」とはならない。

 

これからも執筆と向き合う日々は続く。
しかしながら、プライベートの変化もあり、少しのあいだギアを落とす予定。

 

とにかく、今回の結果は、大変光栄なことです。
関係者の皆様には感謝いたします。
ありがとうございました。
なんらかの場面で「あのとき佳作だった佐藤龍一じゃん!」って言って貰えるように頑張ります。

 

また、『第二回 あたらよ文学賞』の開催が決定しているようです。
詳細及び最終選考委員は『文芸ムック あたらよ・創刊号』をご覧ください。

 

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人間とは。<牧野楠葉さんのディスコードより>

ディスコード内で、ある方が「人間とは何ですか。生きづらさとは何ですか。」という問いを投げかけ、僕以外も何人か反応していた。

こういった類のことは、最近めっきり考えなくなったものの、10代~20歳前後ぐらいまではよく考えたなーと懐かしく思った。

同時に、体系的にアウトプットして、第三者に提示したこともなかったあ、と。

アウトプット貧乏なもんで、頭から出したもんはしっかり公開しておきたい。

以下、僕の投稿です。

 

 

今までの発言をみると、人間とそれ以外を分類することで、「人間とは」を模索しているように感じました。
個人的には、人間とそれ以外の区別は人間による恣意的なものだと思う(こういった考えも了承しているような発言も見て取れますが)ので、そもそも、そのアプローチはナンセンスだと思います。私にとっては、魚も犬も人も同じものだと思っています。というか、「違う」とか「同じ」とかってのが、もう恣意的ですよね。
私のこの立場には、哲学的にちゃんと分類されていそうですね。○○派とか、なんとか。
ただ、持論をぶつけるだけでは議論にならないので、一連の議論に乗っかって、考えてみました。

「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えには、私は懐疑的です。
以下に理由を述べます。

 

まず、「人間とは」という問いについて。
私の意見は、●●さん(問いを投げかけた方とは別の方です)の「意識は身体と心のあいだにある」「両者の織りなすネットワークこそが」という考えに近いです。
私はこれをもう少し広く解釈しています。
「人間とは”ある状態”である」と思っています。
「人間」という単語には「間<あいだ>」という字が入っています。私はこの<あいだ>こそが本質だと思っていて、人Aと人Bと(自己と他者)が居ることで<あいだ>が生まれ、初めて人間になると思います。
<あいだ>の発生には、例えば、コミュニケーションが関係しています。ここでいうコミュニケーションはかなり広い意味で言っています。お互いを無視しあうことや一方通行なものも、ここではコミュニケーションの一種としています。
では、地球上に、人が自分一人になった場合、それは「人間」とは呼べないのかというと、そうは思いません。
「他者」とは、いわゆるもう一人の自分や、過去の自分、未来の自分も含まれるからです。
頭の中の「他者」、それは思考の産物です。なので、自分以外の誰もいない状況で、そういった思考をやめたとき、人間は人間でなくなってしまうと思います。
つまり、「人Aと人Bが居る」という”状態”のことを「人間」というのだと思います。
●●さんの考えは科学的な根拠があるようですが、私の意見は一個人の素人推論にすぎないことを付け加えておきます。

 

次に「生きづらさ」について。
現代人が抱えるほとんどの「生きづらさ」は文明病に類するものだと思います。
おそらく、「生きづらさ」は、イデオロギー的な”幸福”の対概念として生まれたものです。なので、今発生しているほとんどの「生きづらさ」は近代以後に発生したものだと思います。
イデオロギー的、という単語は、近代社会に都合の良い、という意味で使っています。つまり、”幸福”とその対概念である「生きづらさ」は、ごく最近に発明されたものなのではないか、というのが私の意見です。
近代以前の”幸福”はもっと私的なもので、もっと多種多様だったはずです。
「ほとんどの生きづらさ」」と表現したのは、この説明でもまだ漏れるものがあると思うからです。
その漏れたものが発生したのは農耕以後だと思います。
農耕開始による恩恵は計りしれませんが、同時に、格差やそれによる妬みなどの温床となりました。
加えて、今までは死んでしまうような弱い個体が生きていけるようになりました。
たしか、ユヴァル・ノア・ハラリが【サピエンス全史】で「愚か者のニッチ」と表現していた気がします。
私なんかは平均よりも身体が虚弱なほうなので、「今までは死んでしまうような弱い個体」にあたると思っています。
なので、農耕以後ー近代以前に「生きづらさ」を感じている個体は、農耕以前には弱くて死んでしまうはずだった個体なのではないかと思っています。
環境(文化?)の恩恵で生かされてるので、「生きづらい」のもしょうがない。例えば、メガネの発明によって近視は身体障害ではなく個体差になりましたが、メガネは曇るし割れると使えなくなるし、不便ですよね。その不便さはメガネを使っている以上しょうがないものです。
「生きづらさ」とは、そういった意味でしょうがないものなのです。
おそらく、農耕以前は「生きづらいなー」と思う余裕もなく死んでいたはずです。
なので、農耕以前の狩猟時代には、今ある「生きづらさ」ほぼ存在せず、ただ「生か死か」という差し迫った状況だけがあったと思います。

 

「生きづらさ」のほとんどは近代以後に発明されたものなので、人間の誕生がそれよりもはるか以前であることから、「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えは成り立たないと思います。

センシティブな物言いになってしまいましたが、ここで議論なさる方々は論理的な思考の持ち主だと思うので、気にせずに表現しました。ご了承ください。

 

**********

 

6月3日に『ハンチバック』(文學界新人賞受賞作)の読書会やりますので、興味ある方は是非。今からでも参加できますよ。

 

〈コントロール不能な自己〉と暮らす

結婚、二人と一匹(猫)暮らしを始めてもうすぐ三年が経つ。
僕たち二人は一人時間が不可欠な人種だ。互いに自室を持つ。食事は基本一緒だけど、食後は自室に籠ったりする。休日であればなおのこと。
妻との結婚の決め手はいくつもあるが、その一つが、独立した人間である、ということ。僕がいなくても、僕の知らないところで、ちゃんと楽しく暮らしていける人だと思ったから結婚した。

 

話は逸れるが、「結婚」という制度は厄介だ。法的にも文化的にも。なので、僕たち二人が一緒にいることを「結婚」と表現する度にモヤるのだけど、ここで新たな概念を作る気はないので「結婚」と表記する。
あ、ちょっと前から流行ってる事実婚とかではなく、僕たちは普通の婚姻関係だよ。現代日本において、二人の男女が長く一緒にいる状態を選ぶには、自然と「結婚」せざるを得ないからね。

 

話を戻す。
二人暮らしを始めて3か月ぐらいはしんどかった。引っ越しと二人暮らしのストレスが重なって、二人とも通常運転とは言い難かった。
でも、その後はほんと、毎日楽しくて、なるほどこれが新婚ね、と思っていた。

 

ところで、結婚=幸せ というわけではないのは誰もが知っていることだ。結婚することで幸せになれるのは、良好な人間関係が手に入るから、らしい。夫婦、義両親、義兄弟など。なので、それらの良好な人間関係がない場合は幸せとは感じにくいようだ
さらに、最近の研究では、「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説も出てきている。なぜかというと、「結婚したことで得られる人間関係が昔と比べて減ったから」だそうだ。
なんとなく直感に合う理由だと思わないか?
核家族化が進み、ご近所付き合いなど、様々な“縁”が消失した。その代わり、現代人は様々な手法でコミュニティを形成できる。
わざわざ結婚しなくたって、多種多様な人間関係が得られるのだ。

 

ここで一つ疑問が残る。
「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説
なんでトータル不幸になるん?
プラスにならない理由は分かった。ではなぜ、マイナスになるのだろうか。
きっと、先輩夫婦たちは、「トータル不幸」にリアリティがありすぎて、「なぜか」なんて思わないんじゃないか、なんて勝手に思ったり。


僕が結婚生活一年目に感じていたこと。
結婚するとは、
<一人の人間(僕)と、もう一人の人間(妻)の二人暮らし>
ではなく
<一人の人間(僕)ともう一人の人間(妻)が統合され、ほとんど一つになっている>
状態なのではないか、と感じだ。
これを僕視点で言うと、<自己の範囲が人間一つ分、拡張された>となる。しかも、その拡張された部分は、僕のコントロールからは離れている。
つまり、<結婚とは、コントロール不能な自己を抱える>ということなのだ。

それぞれ独立志向のある僕らでさえこうなってしまうんだから、そうでない人たちは、もっと統合されてしまうんじゃないだろうか。

 

コントロール不能感が不幸につながることは、いくつもの研究で明らかにされている。
もしも子供ができれば、さらに、化物級にコントロール不能な自己が増える、と言える。
この仮説が合っているとして、どう向き合っていくべきか。
僕は、妻とずっと一緒にいたいし、幸せにもなりたい。

 

僕の出した答えは、<統合されなきゃいい>である。

 

ここで、意識的に取り入れたい概念が“イエ”である。伝統的すぎる表現なので、もっと今風に言い換える。
我々夫婦は“チーム”なのだ。僕と妻は、チームの運営者であり、かつエースプレイヤーなのである。子供は将来有望な育成選手。
“チーム”という枠を取り入れるだけで、個々の独立性が強調される、気がする。

 

思考の過程を書く時間がないので飛躍は承知のうえだが、ホモ・サピエンスが繁栄できたメカニズムを上手く利用できていると思う。“チーム”という枠を与えることで、結婚生活という“物語”を共有できる、というか。
“夫婦”のままだと、一つになるために個々が統合せざるを得ないが、“物語”を与えられたことによって、個のまま束ねることができた、って感じ。

 

ただの言葉遊びじゃないかーと思う人もいるだろうが、同じ状況におかれていても、捉え方しだいで何かが変わる例なんて、いくらでもあるだろう?

 

こうして人間のよろしくない傾向を知識でハックする営み、楽しー。

作風の変遷

小学生の頃から物語のようなものや未完の作品を生み出してきたが、本格的に執筆を始めたのは2015年10月からである。

 

友人(冬太朗)が描いた「魚田」という変なキャライラストがあって、その二次創作を書いてる腐女子がpixiv上にいる。という回りくどいボケのために書いた「魚田喫茶」シリーズがすべての始まりだ。

 

このキッカケを友人Sに話したら、「あんま言わないほうがいいんじゃない」と言われたけど、本当にこれがキッカケなのだ。

 

次に、冬太朗を驚かせたい一心で、一日か二日で「雨ふれば灯る」っていう、ショートホラーを書いて、その流れで掌編をいくつか書いた。

 

その頃は、比喩の扱いがほんとにわからなかったのと、「小説家になる!」という創作理論本で紹介されていた「丸山健二」氏の、初期作品に憧れたこともあって、シンプルで飾り気のない文体で書いていた。

シンプルな文体故に生まれる奥行きみたいなものの表現に挑んていた。

 

比喩や、文学的表現、文体に凝りすぎた結果、空回りしてスベルってのが、初心者にありがちなミスなのでは、という仮説もあった。

純文学を書きたい初心者は、自分の感性を過信した比喩、文学的表現、文体で書きがちだろうなって、根拠なしに思ってて、僕はそうならないようにしようと思った。

 

初めてちゃんと書いた作品である「無理です」(あきたの文芸2016)は比喩、文学的表現ゼロ。ストーリーと、普通の文の組み合わせて勝負していた。

 

練習のために、あえてコテコテの比喩を使ったり、文体を意図的に変えたりはしていたけど、その流れはつい最近まで続いている。

 

ちなみに、「巣立ち」(長塚節文学賞)は、初期作品のシンプル文体に、数年後それっぽい比喩を意味分かんないなりに等間隔に挿入して、クライマックスを書き直したものだ。

hametuha.com

 

でも、いつの間にか比喩のコツが分かってきて、前作「伴侶」(三田文学新人賞結果まち)では、いつもより比喩をとりいれ、いかにも”表現”です。みたいな文章を書いた。

 

そして、今書いてるやつは、比喩も文学的表現もフルスロットルで書いてる。

楽しい!

 

今でも、シンプル文体から入ったのは正解だったと思ってる。

それっぽい技や派手な大技に憧れてスベる初心者あるあるはそれによって回避できて、地味な基礎練から入ったって感じ。

 

地方文学賞から攻略するっていう、全体戦略のためにも、凝りすぎた文体は減点要素だと思ってた。

 

でも最近思ったんだ。いつまで初心者のつもりでいるんだって。

執筆歴七年。遅筆なりに、短いのもあわせて22作品書いた。

 

勝とうとすると、負ける。でも、勝とうとしなきゃ勝てない。

負けない戦略は存在するが、負けないだけで勝てるわけではない。

 

これらは、あらゆることに通じることだ。

 

シンプル文体は、負けないだけで、勝てる戦略だとは思わないんだ。

小説において、何か勝ちで何が負けかってのは、すごく曖昧だけど。

 

僕はスベってもいいから、負けてもいいから、比喩、文学的表現に挑むことにした。

そしたら、ずっと窮屈に書いてたことに、改めて気付いた。

 

前にも日記で書いたことあるけど、地方文学賞のために本当に書きたいようには書いてなかったんだなー。

 

 

 

 

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2022年日記

今年はいろいろやってたけど、取り立てて成果はなかったなー

 

印象深いトピックとしては、

 

日商簿記二級不合格

●公務員試験録画面接締め切り忘れ

●免許更新忘れ

●文芸思潮新人賞入選

●JA青年大会 活動実績発表秋田県代表選出(ゴーストライティング及びパワポ作成)

 

あたりかな。

 

最後に「●執筆についての振り返り●来年どうする」。

 

日商簿記二級不合格

今の仕事は大変快適で辞めるつもりは毛頭ないけれど、リスクヘッジで簿記取得を試みている。

三級は内容も身近で楽しく勉強できたけど、二級となると、本当に経理担当でもないと触れないような話題で、しかもなんか綺麗じゃないんだよね。

三級は「ここ、こうなったらどうなるの?→ちゃんと想定してる〜」って勉強できたんだけど、二級のときは「なんで、これがこうなんの!?もっとうまいことやれや!」って感じだった。

再受験するかどうかは、考え中。コンコルド状態。

 

●公務員試験 録画面接締め切り忘れ

試験を受けること自体にリスクはないので、受かるまで毎年受けよう精神で初受験。

僕が知る限りはじめて、地元市役所が中途採用で募集し始めた。今までもあったが、DX枠とか専門職だけだったんだよね。

しかし、録画面接を期日を忘れるという凡ミス。気づいたのは翌日!

受かっちゃったら副業はできなくなるけど、給料は上がる。作家はできるし。受からなくても今の生活が続くだけ。

来年も募集するのかなー。

 

●免許更新忘れ

凡ミス第二弾。

気づいたのは期日当日の夜。

二日間無免許生活。ブルー免許になっちゃった。電車乗って、バス乗って、楽しい二日間でした。

 

●文芸思潮新人賞入選

2018年に書いた作品が成仏なされました。

雑誌掲載もされないので、どっかに置いておきたいけど考え中。

もっと上の賞を狙ってたので、嬉しいより悔しい!

 

●JA青年大会 活動実績発表秋田県代表選出(ゴーストライティング及びパワポ作成)

これはサラリーマンのお仕事。

 

執筆作成:佐藤龍一

執筆作成協力:青年部盟友

発表者:青年部盟友

 

って感じ。

今月、北海道・東北大会に行ってきます。

 

●執筆について振り返り

前々から気になっていたんだが、いくつか評価いただいているものの、全部初期作品なんだよね。

2016〜2018年に書いて、後々書き直した作品が受賞している。

金魚屋新人賞最終候補を、「評価」とするなら、2020年に書いた作品もあるけど、あれは実験作だからなんか違う。

デビューがピークで才能が枯渇する作家っているじゃん?

それの、アマチュアバージョンなんじゃないかって心配してる。

荒削りだけど光るものがあったのが、整っちゃって光が鈍くなる、みたいな。

しかし、進んでる道が間違ってるとも思えない。

成長の道としては、王道を進んでるつもり

心配しながらも、やることは変わらんな。

 

●来年どうする

純文中編を群像新人賞応募。

エンタメ中~長編を一篇(ノリで)

 

ずーーっと前から改造したい習慣があって、休日午前の脳みそを信頼しすぎるがあまり、正午をすぎると執筆のやる気が著しく下がるんだよ。

多少パフォーマンス落ちても、休日午後に執筆する習慣を身に着けたい。

6~7年前はできていたんだけどな。

というか、午前がボーナス時間で、正午以降が普通だと思えばいいのか。

 

 

第三回文芸思潮新人賞 入選

第三回文芸思潮新人賞 入選

 

11月半ば頃、他の人の「受賞通知届いた」ツイートを発見して、ドキドキ待ってても来なかったんで、落選したーと思ってたら、昨日(12月16日)に入選のお知らせが届いた。

 

最優秀賞、優秀賞、奨励賞、佳作、入選んんん

 

正直、嬉しいより悔しいが強い。

おそらく雑誌にも載らないいいいぃ。

 

とはいいつつも、2018年に書いた「某の欲望」が成仏できてよかった。

当時読んだ「ベストセラーコード」の感情曲線を参考に書いた。

 

ストーリーとか関係なく、テキスト・マイニングして、ポジティブ単語(+)とネガティブ単語(-)で、曲線グラフ化するとベストセラーの共通項が出てくるっていう。

 

物語の起伏、というものを学んだ良い機会だったなーと、今思う。

 

「某の欲望」は、僕が初めてチャレンジした作品。

それ以前の作品は、置きにいってる優等生的な作品だったけど、この作品を書いてるときは創作してる感強かった記憶がある。

書きながら深まっていく感覚があった。

 

それ以降の数年、地方文学賞のため置きにいった作品ばかり書いていたが、今年本命、三田文学賞に応募した「伴侶」は、僕なりの文学をした。

 

結果は来月?だったかな。

 

今後は、置きにいく作品は書かないようにしたいけど、気は変わるものだからね、分からん。

 

そして、おそらく来週、第二十五回長塚節文学賞の結果が発表されるであろうと思われる。

2020年 2021年 2022年

優秀賞→最終候補→???

頼む!

 

 

コロナで一週間休んで、いくつか生活習慣が変わった(変えた)

 

・コーヒーを飲まなくなった。

あれだけ好きだったのに!まだ未練はあるけど、カフェイン断ちできるチャンスなんてそうそうないので、思い切ってカフェインゼロ生活。

具体的な効用は感じられない。

コロナ明け、一週間ぶりに飲んだコーヒー三口ぐらいで飛んだんで、今カフェイン再開したらやばそう。

 

・夕飯前に執筆時間をとるようにした。

何度か試したことがあるけど、またやってみてる。

 

この間EDENで通話して、幸福のモニタリング(今自分は幸福なのか、幸福になる行動をしているのかという確認)をしなくなったことに気付いた。

 

別にいっかーと思ってたけど、僕はやっぱモニタリングしたほうがいい。

 

小説を書きたいのに、書いてないことに気付いたからだ。

 

幸福になる行動=執筆 をしていない!と思って、執筆の優先度をあげた。

ともなって、スマホからTwitterを消した。見たいときはPCで。

 

Twitter消したのすげえ良い!

隙間時間にやることなくなって、自然と執筆まわりのことや生産的な思考ができるようになった。

 

やめて気づいたことがある。

今までTwitterって、考え事を吐き出す場として使ってたんだよ。

でも、吐き出すために考えてる、みたいな瞬間がかなりあったみたい。

それは、大きく言うと「自分を守るための何か」を考えていた。

例えば、何かの非効率性とか、とんでもない誰かの話とか、どこかの何かの理不尽とか。

自己正当化や自己評価?(しっくりくる言葉が出てこない)のために、ツイートを考えてた。

 

今は吐き出す場所がなくなったから、そういうこと考えてるのに気づいたら、おっとっと。と、考えるのをやめる。

すると、生産的なことを考える時間が増える!

やったー。

今まで、考えちゃったら、「こりゃTwitterだな」とツイートの推敲が頭の中で始まっちゃってた。

 

今は良い感じで、次作にとりかかっている。

来年の群像新人賞に応募予定。あくまで、予定。

 

 

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オシャレは身内ネタ

 

 

先日このツイートを見た。

「身内ネタ」という、端的な言語化はできていなかったものの、似たようなことを考えたことがある。

 

 

ところで、僕は服に興味がない。

服を買うこと自体苦痛で、学生~20代半ばあたりはファッションで苦しんだ。

苦しまずに済んだきっかけが2つある。

 

・「オシャレであろうとするからしんどいんだ。”普通の人”のコスプレをしよう。」という気づき

・「ミニマリスト」という考え方

 

この2つに基づいて、オシャレでもなくダサくもない”普通の人”のコスプレコーデを各季節一つずつ用意して暮らしている。

シンプルすぎて地味だ、という印象を持たれてるかもしれないけど。

たまに「オシャレになりたい」という危険思想が頭に浮かぶこともあるが、その願望を叶えるためには、僕の資質ではコストが高すぎる(苦しむ)ことを思い出して、ぐっと堪えている。

 

だが、”普通の人”のコスプレを続けていて、最近微かな違和感が生まれてきた。

 

「これは”普通”なのか?ダサいのでは?」

 

ファッションを理論的に説明してくれるMBというファッションバイヤーがいる。

僕が”普通の人”のコスプレをする際に参考にする人だ。

 

コロナ療養で時間もあったので、久しぶりにMB情報を摂取した。

 

「オシャレは相対的なもの。人と少し違うからオシャレになる。絶対的なアイテムやコーデはない。」(意訳)

 

 オシャレ ⇔ 普通 ⇔ ダサい 

 

オシャレがズレれば、普通もズレる。

10年前はオシャレでも、現代ならダサい。というのは、理解できる。

 

僕は”普通の人”コーデはシンプルが故に、時代を問わず普遍的であると思っていた。

でも、”普通”もオシャレ・ダサいの中間にある以上、流行があるのだ。

違和感の理由は、時代とともにオシャレがズレたことで、ともなって”普通”がズレていたこと、だったんだ。

”普通”という言葉自体、相対的なものだからそりゃ移ろうか。と、今これを書きながら思った。

 

つまり、”普通”であり続けるためには、悲しいかな、服を買い続けなければならない。

でも、ここまで分かって楽になった。

服を買うのが苦痛である理由の一つに、「次買うのが嫌だから、長く使える物を買いたい」という気持ちがあって、何買えばいいか分からんのに失敗はしたくない、という自ら課していた重しがあった。

でも、どうせ定期的に買わなきゃいけないなら失敗してもいいな、と思えた。

めんどうなのは変わらんが、ダサいのは嫌だからね。

 

「苦しむ」というのはつまり、その対象について考える、ということなのだけど、苦しんでいたからこそファッションについて思索したことがあった。

話は冒頭に戻る。

ファッションも身内ネタに過ぎない。

当時僕が思いついた表現に言い換えると「ファッションはシグナリングである。」

 

オシャレとされているファッション、つまり、流行のファッションを端から見ると「みんな着てるからなんともないけど、変じゃね?」と思うときがある。

この感覚は結構わかるんじゃないだろうか。

 

変だけど、みんな着てるからそれは流行(オシャレ)になる。

 

ここでいう”みんな”とは、「オシャレに興味がある人達」。つまり、身内の価値観。身内ネタである。

 

流行のファッションを身にまとうことは、「自分は流行に興味がありますよ」というシグナリングなのだ。

 

「流行」とは、構造上、若年層で流行っているもの、とされる。

入れ子構造だけど、卵か鶏か、という状態は「流行」の本質だと思う。

 

オシャレであろうとすることは、「自分は流行に興味がありますよ」というシグナリングであり、それはつまり、「自分は若いですよ」というシグナリングなのではないか。

 

さらに言い換えると、「社会的に新陳代謝する側ですよ」というメッセージなんじゃないかな。

 

ここまで推論して、今流行りのポリコレ文脈でこれらを解釈してみると、若さ崇拝に繋がる気がして、オシャレの危険性が示唆されるのはでないか、と思った。

僕の思考はここで止めるので、論理的に示唆されたなー、と思うにとどまる。

僕はそうは思わないけど、示唆されてんなー、ってだけ。

 

以上が、大衆におけるファッションの話で、ブランド物、ハイソサエティらへんは、また話が違くなってくると思う。

”身内”が違うっていうかね。

 

追記

コロナになってからマジで頭が働かない。

今日も本が読めなかったから、日記を書いた。

まだ、喉の痛み、鼻水等の症状が残っているから、それ由来の頭の鈍さならいいんだけど、ブレインフォグだったらやだなーと心配している。