三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

秋田の「中古住宅専門店いえいち」は実際どう?中古住宅購入とリフォームを頼んだ正直レビュー・評価・口コミ

2024年に、中古物件を購入してフルリフォームしました。

お願いしたのは、秋田県秋田市の株式会社リプロデザインが運営する「いえいち」です。

リプロデザインは、中古住宅・中古マンションの買取、販売、仲介、リフォームを手がけており、「いえいち」では中古住宅の購入からリフォーム、外構工事までワンストップで相談できる形を打ち出しています。

 

www.akita-chuko.com

 

 

 

結論

多少割高でもいいから、中古物件をいい感じにリフォームしてほしい、とにかく面倒なことは減らしたい、という人にはおすすめ。

 

理由ははっきりしていて、中古物件の購入からリフォームまで一括で進められること、そして細かい指示を大量に出さなくても、一般的なラインでまとめてくれることです。私生活が忙しい時期だった私にとっては、この「打ち合わせの少なさ」と「ある程度お任せできる感じ」はかなり助かりました。

 

向いている人、向かない人


向いている人


・中古物件探しからリフォームまでまとめて任せたい人
・多少高くても、手間を減らしたい人
・私生活や仕事が忙しく、打ち合わせ回数を減らしたい人

・細かい仕様に強いこだわりがない人
・60〜70点でも、無難に住める形にしてくれれば十分な人

 

向かない人


・細部の仕上がりまでかなり気にする人
・「言わなくても察してほしい」「気の利いた提案がほしい」人
・補助金や減税まで含めて、制度面を手厚く案内してほしい人

・打ち合わせを重ねて、自分の理想を細かく反映したい人

 

 

良かった点


1. とにかくラク

一番よかったのはここです。
中古物件探しとリフォームを別々に進めなくていいので、手間が少ないです。

リフォーム費用はたぶん安くはないと思います。

ただ、ワンストップで進められる分のコストと考えれば、私は納得できました。

忙しい人にとっては、その価値はあります。

 

2. 連絡は早い

担当者は忙しそうではありましたが、LINEでやり取りができて、連絡自体は早かったです。
こちらが不満を伝えたときも、対処はすぐしてくれました。この点は安心感がありました。

 

3. こだわりがない人には進めやすい

リフォームの打ち合わせは、私がイメージしていたより細かくありませんでした。
最初は少し拍子抜けしましたが、見方を変えると、一般的な感じでいいように進めてくれるということでもあります。

 

細かく指定しなくても進むので、

 

・強いこだわりがない
・住宅設備や内装の知識がそこまでない
・いちいち判断するのが面倒

 

という人には、むしろありがたいと思います。

 

気になった点


1. リフォームのクオリティは60〜70点くらい

正直に言うと、仕上がりは60〜70点くらいという印象です。

 

普通に住むには問題ありません。
ただ、細かく見ると、コンクリートの塗りが少し雑だったり、リフォームした部分としていない部分の境目で床に数ミリの段差があったりして、「細部まできれいに仕上げる」という感じではありませんでした。

 

大手メーカーや、仕上がりの美しさを売りにしている会社の水準を期待すると、少し違うと思います。
一方で、「大手ほどの精密さは求めない。その代わり、そこそこ整えて住めるようにしてほしい」という人なら、許容範囲かもしれません。

 

2. 気が利く感じではない

連絡は早いし、不満を言えば動いてくれます。


ただ、こちらが言わなくても先回りして気を利かせてくれる感じではありません。

痒いところに手が届くような提案や段取りの上手さを期待すると、少し物足りなさはあると思います。


受け身でも進みますが、満足度を上げたければ、こちらから気になる点をその都度伝えたほうがいいです。

 

3. 補助金まわりは不安があった

印象が悪かった点として、補助金申請時のことがありました。

申請に行った際、工事手順なのか書類なのかが補助要件に微妙に合っていなかったようで、手続きがスムーズに進みませんでした。

窓口でも「ああ、またリプロデザインさんか」という反応があり、少なくとも役所側では少し警戒感があるように見えました。

 

最終的には補助金を受け取れたので、結果として致命的な問題ではありませんでした。担当者側にも言い分はあるのだと思います。
ただ、利用者としては、制度まわりはもう少し確実に進めてほしいと感じました。

 

4. 減税の案内は弱かった

これはかなり残念でした。

私はかなり古い物件を買ったので、住宅ローン減税の対象にはなりませんでした。そこまでは説明がありました。
ただ、実際にはリフォーム減税の対象にはなっていたのに、その案内はありませんでした。

「古いから住宅ローン減税の対象になりませんね」で終わってしまい、後から自分で調べて気づきました。
全く知識がないわけではなさそうでしたが、税制や制度面のフォローにはあまり期待しすぎないほうがよさそうです。

 

工期について

我が家は平屋のフルリフォームで、全体としては半年くらいかかりました。

途中でやむを得ないトラブルがあり、結果として数か月延びました。
ただ、その件については相手の落ち度ではありません。
なので、会社の段取りが極端に悪かったという印象ではないです。

 

まとめ

 

いえいちは、中古住宅を買って、リフォームして、なるべく手間なく住み始めたい人向けのサービスです。

購入からリフォームまでワンストップで進められる点は、実際に利用してみても明確な強みでした。

その代わり、仕上がりの精密さや、制度面のきめ細かいフォロー、先回りした気配りまで期待すると、やや弱い部分があります。

 

なので私の結論は、最初に書いた通りです。
多少割高でもいいから、中古物件を良い感じにリフォームしてほしい。とにかく面倒なことは嫌だ。そういう人にはおすすめ。
逆に、細部までこだわりたい人、制度面も含めて手厚く伴走してほしい人は、他社とも比較したほうがいいと思います。

第24回江古田文学賞 最終候補!/今年こそ、秋田魁新報社「新年文芸」に応募したい

 

江古田文学119号

 

「伴侶」という作品で、第24回江古田文学賞の最終候補に残りました。

江古田文学賞は以下のような戦歴で、相性が良いんだか悪いんだか。

 

2019年 第18回 一次通過

2021年 第20回 一次通過

2026年 第24回 最終候補 (NEW!)

 

第24回は受賞該当作なし、佳作として緒方水花里さんの「キリストおじさんと僕」

 

一部では日大出身者贔屓の文学賞なんて言われてるけど、佳作の緒方さんは早稲田出身の方だった。

 

選評を読むに、僕の作品は、惜しくも最終候補!ってわけでもなさそう。

でも、一応の評価はいただいて、嬉しい。

ちなみに、最終候補に残った時点で連絡はなく、結果は誌面で知った。

 

「伴侶」は、僕にとって転換点となっている作品で、「ヒユ??ドウヤッテヤンノ??」で数年書いてきた僕が、スベるのを恐れず、“表現”に凝ってみた作品。

 

以下、過去ブログ引用。

比喩や、文学的表現、文体に凝りすぎた結果、空回りしてスベルってのが、初心者にありがちなミスなのでは、という仮説もあった。

純文学を書きたい初心者は、自分の感性を過信した比喩、文学的表現、文体で書きがちだろうなって、根拠なしに思ってて、僕はそうならないようにしようと思った。

 

初めてちゃんと書いた作品である「無理です」(あきたの文芸2016)は比喩、文学的表現ゼロ。ストーリーと、普通の文の組み合わせて勝負していた。

 

練習のために、あえてコテコテの比喩を使ったり、文体を意図的に変えたりはしていたけど、その流れはつい最近まで続いている。

 

ちなみに、「巣立ち」(長塚節文学賞)は、初期作品のシンプル文体に、数年後それっぽい比喩を意味分かんないなりに等間隔に挿入して、クライマックスを書き直したもの

だ。

hametuha.com

 

 

 

「伴侶」のあらすじを、選評から引用。

「私」は30歳、5年前に「妻・地衣子」が事故死して以来、ずっと義母の「知子」と二人で暮らしているが、最近義母は認知症が進行したため時折、「私」をその亡夫であると思うようになった。そんな病気をきっかけに二人の関係はやがて倫理的に許されぬ方向へと向かっていく。

介護者特有の視野狭窄を描く介護ホラー。

江古田文学119より

 

今村夏子さんや小山田浩子さんみたいな、普通のことを淡々と書いてるうちに、なぜか(いつの間にか)怖い。みたいな作品が好きなんすね。

そういう作品を書きたかった。お化けでも、人怖でもないホラー。(ちょっと人怖寄り?)

 

さっきも書いた通り、僕にとってこの作品は転換点だったんだけど、すごく地味な作品だなって思ってた。評価ポイントが自分でも見いだせないというか。

脱皮するために、やりたいことを恥ずかしがりながら、頑張ってやったみたいな作品だった。

 

この次に書いた作品は、書いてるときも楽しかったし自己評価も高かったけど、書き終えて3年たった今思い返すと、比喩や表現というものの理解の浅さが、創作を少し離れたことによって素直に見えてきた。

あと、僕に足りないのは時代批評だと思ってたけど、それだけじゃなく、これを描きたいんだ!って熱量が足りないことに気づいた。

小説を書きたい!って気持ちはあるんだけどな。

 

うーん、いずれにせよ、ライフワークであるには変わりない。

 

そして余談なのだが、歴史的なパラダイムを自分の執筆歴を繋ぎ合わせて、感慨にふけることがあるんだけど、それは、生成AIの台頭なのね。

僕が小説を書いていた3年前は、生成AIがアウトプットする文章なんて、小説に使えるようなもんじゃなかった。

流行りはじめぐらいだったけど、今ほど当たり前に使っていなかった。

選評にも「AI世代の文学~」とかって書いてたりして、僕がちょっと小説書いてない間に、世界は変わってしまったんだなーと思うんだ。

僕自身もchatGPTに課金してるし、会社では全員がCopilot使える環境だし。

 

まだまだ生活は忙しいけど、今年は掌編を一篇書いて、地元の新聞社である秋田魁新報社「新年文芸」に応募したいなって思ってる。

 

yuyakefish.hatenablog.com

yuyakefish.hatenablog.com

yuyakefish.hatenablog.com

 

「センスの哲学」千葉雅也_創作におけるリズム:3つのパラメータを作品づくりのお供に

文章にはリズムがあり、それが文の良し悪しに影響するってのは考えたことあったけど、じゃあ、リズムって何?ってのには、納得のいく解釈は持ち合わせていなかった

 

今までで一番しっくりきてたのは、人体のリズムと関連付けて説明したもの

 

読み手固有の心拍や呼吸のタイミングと、文章の息継ぎや何やらの相性によって、その文章の良し悪し(好み)が決まる、という話

 

こんなもん計算しようないから、自分が心地よいと思う感じでいって、似通ったリズムを持った人に結果的に刺さるのを祈るしかないよなあ、と思ってた

 

今回、リズムについて再考するキッカケをくれたのが、「センスの哲学」千葉雅也

 

ファッションセンス、家具選び、ストーリー作りを0と1に抽象化して、それを比喩的に音楽のリズムと一緒っ!として、センスを紐解く

 

ストーリー制作の界隈では、“感情曲線” (「ベストセラーコード」)や“起承転結”、もっとシンプルに言うなれば“物語の起伏”など、ここで言うリズムを異口同音にラベリングしている

 

だから、考え方自体は別に新しくないんだけど、僕は「音楽のリズムと一緒」という例えにより、新たな視点を得た

 

これは僕の持論なのだけど、複雑の最小単位は3だと思っている


二種類だと、まだシンプルだけど、三種類から人は、物事を複雑に感じる気がしているんだよね

 

こう思ったキッカケがある
鍋のシメ用に買ったラーメンが余っちゃって、スープを作ろうと、お湯に醤油とにんにくを入れた時点で味見をしたら、当然美味しくない。醤油とにんにくの味じゃん!って思った


でも、生姜をちょっと入れたら、美味しくないのには変わりないんだけど、ラーメンのスープ感が出てきて、“醤油とにんにくと生姜の味”じゃなくて、“美味しくないスープの味”に成ったんだよね


それ以降、二種類と三種類の違いに注意するようになって、先の持論が形成されたわけ
なので、全く根拠はない

 

ただ、何か未知のこと紐解くのには、既知のことだけじゃなく、根拠のない持論(多分、これをアブダクションという)が必要なので、気にせず考えを進めた

 

つまりだね。
以上のことから思いついたのは、何か3つのパラメータを設定して、そのボリューム(リズムをグラデーションに捉え直している)を調整して作品を作れば、作品づくりに役立つのではということだ

 

たぶん、色々な創作理論を試すうちに、似たようなことはすでにやってるんだけど、それらを「センスの哲学」をキッカケに、自分なりの解釈したんだな

 

3つに慣れたら4つするも良し、設定で3つ、文章で3つ、人物造形で3つみたいに掛け合わせていくも良し

 

これは、試してみたいぞー
わくわく

 

「センスの哲学」では、下手と下手うま(下手とは何か)についても言及しており、それは内容の序盤だったから忘れちゃったので、あえて自分で考えてみようかなって思ってる

第一回あたらよ文学賞 佳作/第40回太宰治賞応募

第一回あたらよ文学賞において、佳作をいただきました。
作品は文芸ムック「あたらよ」創刊号に掲載されます。

note.com

 

全国の書店陳列に先んじて、11/11文学フリマ【う-4】で販売されます。
予約販売は既に開始されています。

eyedear.thebase.in

 

僕の作品「まゆどじょう」は、奇妙な生態を持つまゆどじょうを巡る物語です。
二次選考時「冒頭からエロスと寂寥感がエグい」という講評をいただきました。
なんと、あたらよ文学賞は一次選考時から最終選考まで、計三回講評をいただけるのです。

 

さて、僕は今まで第一幕として地方文学賞を主戦場としてきました。
第一幕は地方文学賞で、基礎体力づくり。第二幕は中央の賞(デビューできる賞)に応募。第三幕はデビュー後。
と、位置づけています。

 

昨年の三田文学賞に応募、落選した作品「伴侶」を堺に、第二幕に入ったと認識しています。(まあ、僕の心持ち一つなんですが)
本当は、地方文学賞を1~2個受賞して、執筆開始から3~4年目には第二幕に突入する予定だったんですが、思いのほか良い結果に恵まれず、第二幕に入るまで7年を要してしまいました。
第二幕突入も、なんだかなし崩し的で、「大賞はないけど優秀賞とか最終候補とかあるし、いっか」って感じでした。

 

受賞コメントにもあったように、第一幕では、地方文学賞の舞台で評価されるよう、とにかく個性を消して、無味乾燥な文体で、小さくまとまった作品になるように書いてきました。
なので正直、第一幕で書いた作品は、胸を張って自分の作品だとは言えません。例外は、第三回文芸思潮新人賞で入選をいただいた「某の欲望」ぐらいかな。

第三回文芸思潮新人賞 入選 - 三度の飯と、考えごと


とは言うものの、元々、地方文学賞の受賞と基礎体力づくりを目的としていたわけなので、計画どおりに事は進んでいたんです。自分で自分に不完全燃焼を強いていただけで。
ただ、第一幕のおかげで、基礎体力はついたし、型の把握にも役立ちました。僕は小説を書くのが下手なので、こんな風に遠回りが必要だったのです。

 

そして、「伴侶」を堺に、個性の解放を意識しました。
当然、そんな書き方は初めてだったので、良い作品にはならなりませんでした。全然解放できてなかったし。
そして、次の作品「最後の子種」で、ようやく「これが自分の作品だ」と思える作品を書くことができました。そういえば、「最後の子種」の最初の仮タイトルが「解放」だったな。偶然。
評価されるように、ではなく、我を評価せよ、というノリで書きました。
当初は、群像新人賞に応募予定でしたが、太宰治文学賞に出すつもりです。約100/1000作品が一次通過するので、フィードバックを得ることを優先します。
どう評価されるか分かりませんが、僕の作品のなかでは、確実に一番良い作品です。

 

次の長編はどうしようかなーと模索している最中、「第一回あたらよ文学賞」の存在を知りました。第一回だし、多くても100ぐらいの応募数だろうなー、ワンチャンあるかなーと思って、蓋を開けたら応募数は496!勘弁してくれよ、と思いました。
短めの作品でも応募できる賞だったので、もう評価とか関係なくやりたいことやりまくった作品書いたろ!と生まれたのが「まゆどじょう」でした。
「最後の子種」は、自分で課した制約やモデルとした物語の起伏などもあって、やりたいようにやったわけではありませんでした。
「まゆどじょう」は、ほんと、構成も何も気にせず書きました。
そんな作品が評価されたわけなので、非常に実りのあるフィードバックでした。

 

商業デビューとは言わないんだろうと思いますが、晴れて「商業誌に作品が載った人」となったわけです。
僕が参加している牧野楠葉さんの文筆家ディスコードで、昨年商業デビューした作品がすばるの編集者の目に留まり、小説すばるにエッセイを掲載された人がいました。そうやって仕事貰っていくのか、すげーと思ったのと同時に、僕のレベルじゃまだそうはならないだろうと思いました。
「まゆどじょう」を読んで、「是非うちの雑誌に!」とはならない。

 

これからも執筆と向き合う日々は続く。
しかしながら、プライベートの変化もあり、少しのあいだギアを落とす予定。

 

とにかく、今回の結果は、大変光栄なことです。
関係者の皆様には感謝いたします。
ありがとうございました。
なんらかの場面で「あのとき佳作だった佐藤龍一じゃん!」って言って貰えるように頑張ります。

 

また、『第二回 あたらよ文学賞』の開催が決定しているようです。
詳細及び最終選考委員は『文芸ムック あたらよ・創刊号』をご覧ください。

 

yuyakefish.hatenablog.com

人間とは。<牧野楠葉さんのディスコードより>

ディスコード内で、ある方が「人間とは何ですか。生きづらさとは何ですか。」という問いを投げかけ、僕以外も何人か反応していた。

こういった類のことは、最近めっきり考えなくなったものの、10代~20歳前後ぐらいまではよく考えたなーと懐かしく思った。

同時に、体系的にアウトプットして、第三者に提示したこともなかったあ、と。

アウトプット貧乏なもんで、頭から出したもんはしっかり公開しておきたい。

以下、僕の投稿です。

 

 

今までの発言をみると、人間とそれ以外を分類することで、「人間とは」を模索しているように感じました。
個人的には、人間とそれ以外の区別は人間による恣意的なものだと思う(こういった考えも了承しているような発言も見て取れますが)ので、そもそも、そのアプローチはナンセンスだと思います。私にとっては、魚も犬も人も同じものだと思っています。というか、「違う」とか「同じ」とかってのが、もう恣意的ですよね。
私のこの立場には、哲学的にちゃんと分類されていそうですね。○○派とか、なんとか。
ただ、持論をぶつけるだけでは議論にならないので、一連の議論に乗っかって、考えてみました。

「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えには、私は懐疑的です。
以下に理由を述べます。

 

まず、「人間とは」という問いについて。
私の意見は、●●さん(問いを投げかけた方とは別の方です)の「意識は身体と心のあいだにある」「両者の織りなすネットワークこそが」という考えに近いです。
私はこれをもう少し広く解釈しています。
「人間とは”ある状態”である」と思っています。
「人間」という単語には「間<あいだ>」という字が入っています。私はこの<あいだ>こそが本質だと思っていて、人Aと人Bと(自己と他者)が居ることで<あいだ>が生まれ、初めて人間になると思います。
<あいだ>の発生には、例えば、コミュニケーションが関係しています。ここでいうコミュニケーションはかなり広い意味で言っています。お互いを無視しあうことや一方通行なものも、ここではコミュニケーションの一種としています。
では、地球上に、人が自分一人になった場合、それは「人間」とは呼べないのかというと、そうは思いません。
「他者」とは、いわゆるもう一人の自分や、過去の自分、未来の自分も含まれるからです。
頭の中の「他者」、それは思考の産物です。なので、自分以外の誰もいない状況で、そういった思考をやめたとき、人間は人間でなくなってしまうと思います。
つまり、「人Aと人Bが居る」という”状態”のことを「人間」というのだと思います。
●●さんの考えは科学的な根拠があるようですが、私の意見は一個人の素人推論にすぎないことを付け加えておきます。

 

次に「生きづらさ」について。
現代人が抱えるほとんどの「生きづらさ」は文明病に類するものだと思います。
おそらく、「生きづらさ」は、イデオロギー的な”幸福”の対概念として生まれたものです。なので、今発生しているほとんどの「生きづらさ」は近代以後に発生したものだと思います。
イデオロギー的、という単語は、近代社会に都合の良い、という意味で使っています。つまり、”幸福”とその対概念である「生きづらさ」は、ごく最近に発明されたものなのではないか、というのが私の意見です。
近代以前の”幸福”はもっと私的なもので、もっと多種多様だったはずです。
「ほとんどの生きづらさ」」と表現したのは、この説明でもまだ漏れるものがあると思うからです。
その漏れたものが発生したのは農耕以後だと思います。
農耕開始による恩恵は計りしれませんが、同時に、格差やそれによる妬みなどの温床となりました。
加えて、今までは死んでしまうような弱い個体が生きていけるようになりました。
たしか、ユヴァル・ノア・ハラリが【サピエンス全史】で「愚か者のニッチ」と表現していた気がします。
私なんかは平均よりも身体が虚弱なほうなので、「今までは死んでしまうような弱い個体」にあたると思っています。
なので、農耕以後ー近代以前に「生きづらさ」を感じている個体は、農耕以前には弱くて死んでしまうはずだった個体なのではないかと思っています。
環境(文化?)の恩恵で生かされてるので、「生きづらい」のもしょうがない。例えば、メガネの発明によって近視は身体障害ではなく個体差になりましたが、メガネは曇るし割れると使えなくなるし、不便ですよね。その不便さはメガネを使っている以上しょうがないものです。
「生きづらさ」とは、そういった意味でしょうがないものなのです。
おそらく、農耕以前は「生きづらいなー」と思う余裕もなく死んでいたはずです。
なので、農耕以前の狩猟時代には、今ある「生きづらさ」ほぼ存在せず、ただ「生か死か」という差し迫った状況だけがあったと思います。

 

「生きづらさ」のほとんどは近代以後に発明されたものなので、人間の誕生がそれよりもはるか以前であることから、「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えは成り立たないと思います。

センシティブな物言いになってしまいましたが、ここで議論なさる方々は論理的な思考の持ち主だと思うので、気にせずに表現しました。ご了承ください。

 

**********

 

6月3日に『ハンチバック』(文學界新人賞受賞作)の読書会やりますので、興味ある方は是非。今からでも参加できますよ。

 

〈コントロール不能な自己〉と暮らす

結婚、二人と一匹(猫)暮らしを始めてもうすぐ三年が経つ。
僕たち二人は一人時間が不可欠な人種だ。互いに自室を持つ。食事は基本一緒だけど、食後は自室に籠ったりする。休日であればなおのこと。
妻との結婚の決め手はいくつもあるが、その一つが、独立した人間である、ということ。僕がいなくても、僕の知らないところで、ちゃんと楽しく暮らしていける人だと思ったから結婚した。

 

話は逸れるが、「結婚」という制度は厄介だ。法的にも文化的にも。なので、僕たち二人が一緒にいることを「結婚」と表現する度にモヤるのだけど、ここで新たな概念を作る気はないので「結婚」と表記する。
あ、ちょっと前から流行ってる事実婚とかではなく、僕たちは普通の婚姻関係だよ。現代日本において、二人の男女が長く一緒にいる状態を選ぶには、自然と「結婚」せざるを得ないからね。

 

話を戻す。
二人暮らしを始めて3か月ぐらいはしんどかった。引っ越しと二人暮らしのストレスが重なって、二人とも通常運転とは言い難かった。
でも、その後はほんと、毎日楽しくて、なるほどこれが新婚ね、と思っていた。

 

ところで、結婚=幸せ というわけではないのは誰もが知っていることだ。結婚することで幸せになれるのは、良好な人間関係が手に入るから、らしい。夫婦、義両親、義兄弟など。なので、それらの良好な人間関係がない場合は幸せとは感じにくいようだ
さらに、最近の研究では、「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説も出てきている。なぜかというと、「結婚したことで得られる人間関係が昔と比べて減ったから」だそうだ。
なんとなく直感に合う理由だと思わないか?
核家族化が進み、ご近所付き合いなど、様々な“縁”が消失した。その代わり、現代人は様々な手法でコミュニティを形成できる。
わざわざ結婚しなくたって、多種多様な人間関係が得られるのだ。

 

ここで一つ疑問が残る。
「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説
なんでトータル不幸になるん?
プラスにならない理由は分かった。ではなぜ、マイナスになるのだろうか。
きっと、先輩夫婦たちは、「トータル不幸」にリアリティがありすぎて、「なぜか」なんて思わないんじゃないか、なんて勝手に思ったり。


僕が結婚生活一年目に感じていたこと。
結婚するとは、
<一人の人間(僕)と、もう一人の人間(妻)の二人暮らし>
ではなく
<一人の人間(僕)ともう一人の人間(妻)が統合され、ほとんど一つになっている>
状態なのではないか、と感じだ。
これを僕視点で言うと、<自己の範囲が人間一つ分、拡張された>となる。しかも、その拡張された部分は、僕のコントロールからは離れている。
つまり、<結婚とは、コントロール不能な自己を抱える>ということなのだ。

それぞれ独立志向のある僕らでさえこうなってしまうんだから、そうでない人たちは、もっと統合されてしまうんじゃないだろうか。

 

コントロール不能感が不幸につながることは、いくつもの研究で明らかにされている。
もしも子供ができれば、さらに、化物級にコントロール不能な自己が増える、と言える。
この仮説が合っているとして、どう向き合っていくべきか。
僕は、妻とずっと一緒にいたいし、幸せにもなりたい。

 

僕の出した答えは、<統合されなきゃいい>である。

 

ここで、意識的に取り入れたい概念が“イエ”である。伝統的すぎる表現なので、もっと今風に言い換える。
我々夫婦は“チーム”なのだ。僕と妻は、チームの運営者であり、かつエースプレイヤーなのである。子供は将来有望な育成選手。
“チーム”という枠を取り入れるだけで、個々の独立性が強調される、気がする。

 

思考の過程を書く時間がないので飛躍は承知のうえだが、ホモ・サピエンスが繁栄できたメカニズムを上手く利用できていると思う。“チーム”という枠を与えることで、結婚生活という“物語”を共有できる、というか。
“夫婦”のままだと、一つになるために個々が統合せざるを得ないが、“物語”を与えられたことによって、個のまま束ねることができた、って感じ。

 

ただの言葉遊びじゃないかーと思う人もいるだろうが、同じ状況におかれていても、捉え方しだいで何かが変わる例なんて、いくらでもあるだろう?

 

こうして人間のよろしくない傾向を知識でハックする営み、楽しー。

作風の変遷

小学生の頃から物語のようなものや未完の作品を生み出してきたが、本格的に執筆を始めたのは2015年10月からである。

 

友人(冬太朗)が描いた「魚田」という変なキャライラストがあって、その二次創作を書いてる腐女子がpixiv上にいる。という回りくどいボケのために書いた「魚田喫茶」シリーズがすべての始まりだ。

 

このキッカケを友人Sに話したら、「あんま言わないほうがいいんじゃない」と言われたけど、本当にこれがキッカケなのだ。

 

次に、冬太朗を驚かせたい一心で、一日か二日で「雨ふれば灯る」っていう、ショートホラーを書いて、その流れで掌編をいくつか書いた。

 

その頃は、比喩の扱いがほんとにわからなかったのと、「小説家になる!」という創作理論本で紹介されていた「丸山健二」氏の、初期作品に憧れたこともあって、シンプルで飾り気のない文体で書いていた。

シンプルな文体故に生まれる奥行きみたいなものの表現に挑んていた。

 

比喩や、文学的表現、文体に凝りすぎた結果、空回りしてスベルってのが、初心者にありがちなミスなのでは、という仮説もあった。

純文学を書きたい初心者は、自分の感性を過信した比喩、文学的表現、文体で書きがちだろうなって、根拠なしに思ってて、僕はそうならないようにしようと思った。

 

初めてちゃんと書いた作品である「無理です」(あきたの文芸2016)は比喩、文学的表現ゼロ。ストーリーと、普通の文の組み合わせて勝負していた。

 

練習のために、あえてコテコテの比喩を使ったり、文体を意図的に変えたりはしていたけど、その流れはつい最近まで続いている。

 

ちなみに、「巣立ち」(長塚節文学賞)は、初期作品のシンプル文体に、数年後それっぽい比喩を意味分かんないなりに等間隔に挿入して、クライマックスを書き直したものだ。

hametuha.com

 

でも、いつの間にか比喩のコツが分かってきて、前作「伴侶」(三田文学新人賞結果まち)では、いつもより比喩をとりいれ、いかにも”表現”です。みたいな文章を書いた。

 

そして、今書いてるやつは、比喩も文学的表現もフルスロットルで書いてる。

楽しい!

 

今でも、シンプル文体から入ったのは正解だったと思ってる。

それっぽい技や派手な大技に憧れてスベる初心者あるあるはそれによって回避できて、地味な基礎練から入ったって感じ。

 

地方文学賞から攻略するっていう、全体戦略のためにも、凝りすぎた文体は減点要素だと思ってた。

 

でも最近思ったんだ。いつまで初心者のつもりでいるんだって。

執筆歴七年。遅筆なりに、短いのもあわせて22作品書いた。

 

勝とうとすると、負ける。でも、勝とうとしなきゃ勝てない。

負けない戦略は存在するが、負けないだけで勝てるわけではない。

 

これらは、あらゆることに通じることだ。

 

シンプル文体は、負けないだけで、勝てる戦略だとは思わないんだ。

小説において、何か勝ちで何が負けかってのは、すごく曖昧だけど。

 

僕はスベってもいいから、負けてもいいから、比喩、文学的表現に挑むことにした。

そしたら、ずっと窮屈に書いてたことに、改めて気付いた。

 

前にも日記で書いたことあるけど、地方文学賞のために本当に書きたいようには書いてなかったんだなー。

 

 

 

 

yuyakefish.hatenablog.com

 

yuyakefish.hatenablog.com

 

yuyakefish.hatenablog.com