(旧記事)「人に影響を与えたい」という欲求と「種を残す本能」
『原宿ブックカフェ』というテレビ番組で、作家さんを招くコーナーがある。
そのコーナーでは「今までの人生で影響を受けた本」を一冊、作家さんが紹介する。
今まで見た中で二人、こんなことを言っていた作家さんがいた。
「影響というのは本一冊で受けるものではなく、今まで読んできた本や重ねてきた経験が積み重なって影響されるのだ」
ということを、それぞれの表現でお話していた。
”影響”というのは、そういうものだ。
人生の転機かと思われる出来事Cで受けた影響C。
それまでの人生で受けた影響Aと影響B。
影響Aを受けても影響Bがなかった場合(逆も然り)、全く同じ出来事Cがあっても影響Cは受けなかったかもしれない。
影響というのは、ちょうど、アミダクジのように、スタートが同じでも線が一本少ないだけで(あるいは多いだけで)ゴールが変わってくる。
ある作家さんが大好きで、ものすごく影響を受けている、としよう。
その作家さんを好きになる前に大好きだった作家さんがいるとする。
以前大好きだった作家さんから受けた影響があるからこそ、今その作家さんを好きになり影響を受けているのだ。
前好きだった作家さんに出会う前に、今大好きな作家さんに出会っても大して好きにならず影響も受けなかったかもしれない。
あくまで、かもしれない。
今受けている影響は、今まで受けてきた影響一つ一つがキッカケとなっているのだ。
ところで、自分の影響を受けた人を見ると、なんだか気持ちが良い。
自分がいなければ、その人は”影響を受けた状態”にならなかったわけで、自分が一つ上へ、その人よりも優位になったように感じる。実際はそんなわけでもなさそうだが。
影響を与える方法は、いくらかある。
自らの思想、考えを話す。相手に対してアクションを起こす。などなど…
いずれも、自分が発することで、相手が影響を受ける。
結果である”影響を受けた状態”は、原因である自分がいなければ起きうることがない。
自分の”影響を受けた状態”である他者は、自分の存在の証明にもなるうる。
自分がいなければ、そうはならなかったからだ。
相手よりも優位に感じられる、自らの存在証明、様々な理由から人は「人に影響を与えたい」という欲求があるように思える。
強烈な影響の一つが宗教である。
また、女性は肌を露出しない。
ムハンマドの思想に影響を受けた結果だ。
実際のところや詳しいことは分からないが、ムハンマドも「人に影響を与えたい」という欲求があり、思想を広めようとイスラム教を開いたのではないだろうか。
この”思想を広める”という行為は、自分の考えと同じ考え持った人を増やす、ということだろう。
全く同じ考えを持ち、その考えを元にした信条も全く同じである場合、生き方、つまり言動の一つ一つが似通ってくる。
言動のすべてが全く同じである場合、見た目は違えど、中身は同じ人間のようなものだ。
”思想を広める”というのは、極端なことを言えば、自分のコピーを作ろうとしているということだ。
子孫を残すことも、コピーを作るという点では同じだ。(厳密に言えば、子は100%自分のコピーではないが)
子孫を残せばDNAという情報が、子に残る。
思想を広めれば、思想という情報が、他者に残る。
どちらも、”自分”という情報を残すという意味では同じことのようだ。
「人に影響を与えたい」という欲求と「種を残す本能」の根幹は、同じところからきている。