三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

人間とは。<牧野楠葉さんのディスコードより>

ディスコード内で、ある方が「人間とは何ですか。生きづらさとは何ですか。」という問いを投げかけ、僕以外も何人か反応していた。

こういった類のことは、最近めっきり考えなくなったものの、10代~20歳前後ぐらいまではよく考えたなーと懐かしく思った。

同時に、体系的にアウトプットして、第三者に提示したこともなかったあ、と。

アウトプット貧乏なもんで、頭から出したもんはしっかり公開しておきたい。

以下、僕の投稿です。

 

 

今までの発言をみると、人間とそれ以外を分類することで、「人間とは」を模索しているように感じました。
個人的には、人間とそれ以外の区別は人間による恣意的なものだと思う(こういった考えも了承しているような発言も見て取れますが)ので、そもそも、そのアプローチはナンセンスだと思います。私にとっては、魚も犬も人も同じものだと思っています。というか、「違う」とか「同じ」とかってのが、もう恣意的ですよね。
私のこの立場には、哲学的にちゃんと分類されていそうですね。○○派とか、なんとか。
ただ、持論をぶつけるだけでは議論にならないので、一連の議論に乗っかって、考えてみました。

「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えには、私は懐疑的です。
以下に理由を述べます。

 

まず、「人間とは」という問いについて。
私の意見は、●●さん(問いを投げかけた方とは別の方です)の「意識は身体と心のあいだにある」「両者の織りなすネットワークこそが」という考えに近いです。
私はこれをもう少し広く解釈しています。
「人間とは”ある状態”である」と思っています。
「人間」という単語には「間<あいだ>」という字が入っています。私はこの<あいだ>こそが本質だと思っていて、人Aと人Bと(自己と他者)が居ることで<あいだ>が生まれ、初めて人間になると思います。
<あいだ>の発生には、例えば、コミュニケーションが関係しています。ここでいうコミュニケーションはかなり広い意味で言っています。お互いを無視しあうことや一方通行なものも、ここではコミュニケーションの一種としています。
では、地球上に、人が自分一人になった場合、それは「人間」とは呼べないのかというと、そうは思いません。
「他者」とは、いわゆるもう一人の自分や、過去の自分、未来の自分も含まれるからです。
頭の中の「他者」、それは思考の産物です。なので、自分以外の誰もいない状況で、そういった思考をやめたとき、人間は人間でなくなってしまうと思います。
つまり、「人Aと人Bが居る」という”状態”のことを「人間」というのだと思います。
●●さんの考えは科学的な根拠があるようですが、私の意見は一個人の素人推論にすぎないことを付け加えておきます。

 

次に「生きづらさ」について。
現代人が抱えるほとんどの「生きづらさ」は文明病に類するものだと思います。
おそらく、「生きづらさ」は、イデオロギー的な”幸福”の対概念として生まれたものです。なので、今発生しているほとんどの「生きづらさ」は近代以後に発生したものだと思います。
イデオロギー的、という単語は、近代社会に都合の良い、という意味で使っています。つまり、”幸福”とその対概念である「生きづらさ」は、ごく最近に発明されたものなのではないか、というのが私の意見です。
近代以前の”幸福”はもっと私的なもので、もっと多種多様だったはずです。
「ほとんどの生きづらさ」」と表現したのは、この説明でもまだ漏れるものがあると思うからです。
その漏れたものが発生したのは農耕以後だと思います。
農耕開始による恩恵は計りしれませんが、同時に、格差やそれによる妬みなどの温床となりました。
加えて、今までは死んでしまうような弱い個体が生きていけるようになりました。
たしか、ユヴァル・ノア・ハラリが【サピエンス全史】で「愚か者のニッチ」と表現していた気がします。
私なんかは平均よりも身体が虚弱なほうなので、「今までは死んでしまうような弱い個体」にあたると思っています。
なので、農耕以後ー近代以前に「生きづらさ」を感じている個体は、農耕以前には弱くて死んでしまうはずだった個体なのではないかと思っています。
環境(文化?)の恩恵で生かされてるので、「生きづらい」のもしょうがない。例えば、メガネの発明によって近視は身体障害ではなく個体差になりましたが、メガネは曇るし割れると使えなくなるし、不便ですよね。その不便さはメガネを使っている以上しょうがないものです。
「生きづらさ」とは、そういった意味でしょうがないものなのです。
おそらく、農耕以前は「生きづらいなー」と思う余裕もなく死んでいたはずです。
なので、農耕以前の狩猟時代には、今ある「生きづらさ」ほぼ存在せず、ただ「生か死か」という差し迫った状況だけがあったと思います。

 

「生きづらさ」のほとんどは近代以後に発明されたものなので、人間の誕生がそれよりもはるか以前であることから、「生きづらさを感じることこそが人間である」という考えは成り立たないと思います。

センシティブな物言いになってしまいましたが、ここで議論なさる方々は論理的な思考の持ち主だと思うので、気にせずに表現しました。ご了承ください。

 

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6月3日に『ハンチバック』(文學界新人賞受賞作)の読書会やりますので、興味ある方は是非。今からでも参加できますよ。