三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

〈コントロール不能な自己〉と暮らす

結婚、二人と一匹(猫)暮らしを始めてもうすぐ三年が経つ。
僕たち二人は一人時間が不可欠な人種だ。互いに自室を持つ。食事は基本一緒だけど、食後は自室に籠ったりする。休日であればなおのこと。
妻との結婚の決め手はいくつもあるが、その一つが、独立した人間である、ということ。僕がいなくても、僕の知らないところで、ちゃんと楽しく暮らしていける人だと思ったから結婚した。

 

話は逸れるが、「結婚」という制度は厄介だ。法的にも文化的にも。なので、僕たち二人が一緒にいることを「結婚」と表現する度にモヤるのだけど、ここで新たな概念を作る気はないので「結婚」と表記する。
あ、ちょっと前から流行ってる事実婚とかではなく、僕たちは普通の婚姻関係だよ。現代日本において、二人の男女が長く一緒にいる状態を選ぶには、自然と「結婚」せざるを得ないからね。

 

話を戻す。
二人暮らしを始めて3か月ぐらいはしんどかった。引っ越しと二人暮らしのストレスが重なって、二人とも通常運転とは言い難かった。
でも、その後はほんと、毎日楽しくて、なるほどこれが新婚ね、と思っていた。

 

ところで、結婚=幸せ というわけではないのは誰もが知っていることだ。結婚することで幸せになれるのは、良好な人間関係が手に入るから、らしい。夫婦、義両親、義兄弟など。なので、それらの良好な人間関係がない場合は幸せとは感じにくいようだ
さらに、最近の研究では、「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説も出てきている。なぜかというと、「結婚したことで得られる人間関係が昔と比べて減ったから」だそうだ。
なんとなく直感に合う理由だと思わないか?
核家族化が進み、ご近所付き合いなど、様々な“縁”が消失した。その代わり、現代人は様々な手法でコミュニティを形成できる。
わざわざ結婚しなくたって、多種多様な人間関係が得られるのだ。

 

ここで一つ疑問が残る。
「結婚したほうがトータル不幸になるんじゃね」説
なんでトータル不幸になるん?
プラスにならない理由は分かった。ではなぜ、マイナスになるのだろうか。
きっと、先輩夫婦たちは、「トータル不幸」にリアリティがありすぎて、「なぜか」なんて思わないんじゃないか、なんて勝手に思ったり。


僕が結婚生活一年目に感じていたこと。
結婚するとは、
<一人の人間(僕)と、もう一人の人間(妻)の二人暮らし>
ではなく
<一人の人間(僕)ともう一人の人間(妻)が統合され、ほとんど一つになっている>
状態なのではないか、と感じだ。
これを僕視点で言うと、<自己の範囲が人間一つ分、拡張された>となる。しかも、その拡張された部分は、僕のコントロールからは離れている。
つまり、<結婚とは、コントロール不能な自己を抱える>ということなのだ。

それぞれ独立志向のある僕らでさえこうなってしまうんだから、そうでない人たちは、もっと統合されてしまうんじゃないだろうか。

 

コントロール不能感が不幸につながることは、いくつもの研究で明らかにされている。
もしも子供ができれば、さらに、化物級にコントロール不能な自己が増える、と言える。
この仮説が合っているとして、どう向き合っていくべきか。
僕は、妻とずっと一緒にいたいし、幸せにもなりたい。

 

僕の出した答えは、<統合されなきゃいい>である。

 

ここで、意識的に取り入れたい概念が“イエ”である。伝統的すぎる表現なので、もっと今風に言い換える。
我々夫婦は“チーム”なのだ。僕と妻は、チームの運営者であり、かつエースプレイヤーなのである。子供は将来有望な育成選手。
“チーム”という枠を取り入れるだけで、個々の独立性が強調される、気がする。

 

思考の過程を書く時間がないので飛躍は承知のうえだが、ホモ・サピエンスが繁栄できたメカニズムを上手く利用できていると思う。“チーム”という枠を与えることで、結婚生活という“物語”を共有できる、というか。
“夫婦”のままだと、一つになるために個々が統合せざるを得ないが、“物語”を与えられたことによって、個のまま束ねることができた、って感じ。

 

ただの言葉遊びじゃないかーと思う人もいるだろうが、同じ状況におかれていても、捉え方しだいで何かが変わる例なんて、いくらでもあるだろう?

 

こうして人間のよろしくない傾向を知識でハックする営み、楽しー。