三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

オシャレは身内ネタ

 

 

先日このツイートを見た。

「身内ネタ」という、端的な言語化はできていなかったものの、似たようなことを考えたことがある。

 

 

ところで、僕は服に興味がない。

服を買うこと自体苦痛で、学生~20代半ばあたりはファッションで苦しんだ。

苦しまずに済んだきっかけが2つある。

 

・「オシャレであろうとするからしんどいんだ。”普通の人”のコスプレをしよう。」という気づき

・「ミニマリスト」という考え方

 

この2つに基づいて、オシャレでもなくダサくもない”普通の人”のコスプレコーデを各季節一つずつ用意して暮らしている。

シンプルすぎて地味だ、という印象を持たれてるかもしれないけど。

たまに「オシャレになりたい」という危険思想が頭に浮かぶこともあるが、その願望を叶えるためには、僕の資質ではコストが高すぎる(苦しむ)ことを思い出して、ぐっと堪えている。

 

だが、”普通の人”のコスプレを続けていて、最近微かな違和感が生まれてきた。

 

「これは”普通”なのか?ダサいのでは?」

 

ファッションを理論的に説明してくれるMBというファッションバイヤーがいる。

僕が”普通の人”のコスプレをする際に参考にする人だ。

 

コロナ療養で時間もあったので、久しぶりにMB情報を摂取した。

 

「オシャレは相対的なもの。人と少し違うからオシャレになる。絶対的なアイテムやコーデはない。」(意訳)

 

 オシャレ ⇔ 普通 ⇔ ダサい 

 

オシャレがズレれば、普通もズレる。

10年前はオシャレでも、現代ならダサい。というのは、理解できる。

 

僕は”普通の人”コーデはシンプルが故に、時代を問わず普遍的であると思っていた。

でも、”普通”もオシャレ・ダサいの中間にある以上、流行があるのだ。

違和感の理由は、時代とともにオシャレがズレたことで、ともなって”普通”がズレていたこと、だったんだ。

”普通”という言葉自体、相対的なものだからそりゃ移ろうか。と、今これを書きながら思った。

 

つまり、”普通”であり続けるためには、悲しいかな、服を買い続けなければならない。

でも、ここまで分かって楽になった。

服を買うのが苦痛である理由の一つに、「次買うのが嫌だから、長く使える物を買いたい」という気持ちがあって、何買えばいいか分からんのに失敗はしたくない、という自ら課していた重しがあった。

でも、どうせ定期的に買わなきゃいけないなら失敗してもいいな、と思えた。

めんどうなのは変わらんが、ダサいのは嫌だからね。

 

「苦しむ」というのはつまり、その対象について考える、ということなのだけど、苦しんでいたからこそファッションについて思索したことがあった。

話は冒頭に戻る。

ファッションも身内ネタに過ぎない。

当時僕が思いついた表現に言い換えると「ファッションはシグナリングである。」

 

オシャレとされているファッション、つまり、流行のファッションを端から見ると「みんな着てるからなんともないけど、変じゃね?」と思うときがある。

この感覚は結構わかるんじゃないだろうか。

 

変だけど、みんな着てるからそれは流行(オシャレ)になる。

 

ここでいう”みんな”とは、「オシャレに興味がある人達」。つまり、身内の価値観。身内ネタである。

 

流行のファッションを身にまとうことは、「自分は流行に興味がありますよ」というシグナリングなのだ。

 

「流行」とは、構造上、若年層で流行っているもの、とされる。

入れ子構造だけど、卵か鶏か、という状態は「流行」の本質だと思う。

 

オシャレであろうとすることは、「自分は流行に興味がありますよ」というシグナリングであり、それはつまり、「自分は若いですよ」というシグナリングなのではないか。

 

さらに言い換えると、「社会的に新陳代謝する側ですよ」というメッセージなんじゃないかな。

 

ここまで推論して、今流行りのポリコレ文脈でこれらを解釈してみると、若さ崇拝に繋がる気がして、オシャレの危険性が示唆されるのはでないか、と思った。

僕の思考はここで止めるので、論理的に示唆されたなー、と思うにとどまる。

僕はそうは思わないけど、示唆されてんなー、ってだけ。

 

以上が、大衆におけるファッションの話で、ブランド物、ハイソサエティらへんは、また話が違くなってくると思う。

”身内”が違うっていうかね。

 

追記

コロナになってからマジで頭が働かない。

今日も本が読めなかったから、日記を書いた。

まだ、喉の痛み、鼻水等の症状が残っているから、それ由来の頭の鈍さならいいんだけど、ブレインフォグだったらやだなーと心配している。