三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

なぜ世界は存在しないのか①

 

このブログで実現したいこと(2020年現在)

①僕がどんなことを考えているか知ってもらう

②知識共有

③僕をとっかかりに新しいことを知ってもらう

 

 

①僕がどんなことを考えているか知ってもらう

友だちにもカテゴリがあり、EDENこそ至上だとは思わないけど(中学、高校、専門(EDEN以外)も僕の大切な友達)、EDENレベルで多種多様なことを語らえる友人を作ることはもうできない。

できないというか、コストが高すぎてそういう類の友人は、社会人以降には実質作れない。

語らえる性質の人と出会っていたとしても、お互いそこまで踏み込んで確かめるリスクはとらないって意味ね。

リスクをとらない人間関係というのが、社会人以降のコミュニティのスタンダードだよね、きっと。

それでも、この人は!と思える人に出会えたとき、”僕”の前提を知ってもらうにはあまりに時間がかかる。

18歳~20歳のくだらなくて冗長で最高だった時間を過ごしたEDENは、自然と僕の前提を知っている。

その時間をショートカットできるツールがブログだと思っていた。

だからもっと、自分のことを書き残しておきたいのだけど、面倒くさがりで飽き症の僕が、目的に耐えうるブログを書くのはなかなか難しいことだ。

 

②知識共有

③僕をとっかかりに新しいことを知ってもらう

は被る部分もあるのだけど、②知識共有はEDENに向けて発信することを想定している。

③僕をとっかかりに~、はこのブログの存在を伝えているEDEN以外の友だちに対してのことだ。

全く興味がない分野、ちょっと気になるけど調べるほどでもない分野に関して、「きみゆが書いていることなら読んでみるか」という気持ちになり、見識がひろがってくれればうれしい。

 

 

今日は、②~③の記事を書く予定で、まずは、と書こうと思った経緯を説明したんだけど、すでに目が疲れてきてしんどくなってきた。

 

なぜ世界は存在しないのか/マルクス・ガブリエル

「哲学」は、是非みんなにも取り入れてもらいたい分野だ。

本書についても共有したい知識がたくさんあるのだけど、とりあえずいくつか。

 

本書序文P26~

哲学はエリートのための密教ではなく、多くの場合たしかに厳密にすぎるとはいえ、やはり公開された公共の営みであるべきだと考えるからです。

(中略)

今しがた揚げた問いのうち最初の二つは、いずれも小学生時代、学校から帰る途中だった私にふと思い浮かんだものです。

 

 

多くの子供たちは哲学者だったはず。未知ばかりがひろがり、それを究明する営みはまさに哲学だ。

4~5歳の頃、「忘れた」と「思いだしてない」の違いを考えたことがあった。

もろ哲学。当時の僕は全然区別できなかったけどね。

 

大人になるにつれ、僕たちは「生活すること」ばかりを考えるようになり、哲学者ではなくなった。

著者は、序文に際して、そういうことを言いたかったんじゃないだろうか。

哲学って本当はすごく身近なものなんですよー、と。

 

哲学とは、生活におけるパリコレである

きみゆクライマー(1992年~)

 

 パリコレで見る服って、奇抜すぎて意味わからんけど、あれがあるおかげで僕らが着るユニクロがあるんだって。

濃度高高のパリコレの服が源流となって、薄まって薄まって、日常の流行になるんだって。

 

「哲学」という学問も、象牙の塔じゃなくて、しっかりと僕らの日常と接続された(でも遠い)ものだと思うんだよ。

ただ、もっと日常に近いところで「哲学する」ことはできる。子供の頃のようにね。

 

自力で「哲学する」こともできるけど、凡人の頭では限界がある。

そんなときには、知識凝縮紙片(本)の出番!

 

今回書こうと思っていたことがようやく出てくるよ↓

 

 

第一章これはそもそも何なのか、この世界とは? あなたと宇宙 P38

こうして、この世界全体はおよそ何であるのかという問いと、人生の意味の問いとは、明らかに密接な関係にあります。仮に、この世界全体はそもそも亜原子粒子の巨大な集積か、あるいはもっと理解しがたい多くの構造体の集積であるーたとえば無数のいわゆる弦が一○次元の空間と一次元の時間のなかで振動していて、振動数に応じて電子やそのほかの粒子として現象するなど―としましょう。このような想定を出発点として考えるかぎり、ここから人生の意味を引き出すのは、かなり難しいでしょう。この場合、わたしたちの人生それ自体は、精神も心もない粒子の働きのたんなる結果、つまりはある種の幻想だということになるだろうからです。わたしは振動する弦の集積にすぎず、この弦の集積がそれ自身について、あれこれの関心計画·願望·不安などを抱いて生きる人間だと錯覚している。こんなふうに想定するかぎり、わたしは「はてしない物語』に言われる虚無にすでに取としましょり込まれているのです。

 ようやく半分近くまで読んだけど、すごく大事なことが書かれていてね。救われたというか、「やっぱそうだよね!よかったー!」と思ったことがあって。

 

何度かこの主張が登場するのだけど、「物理学(科学)は万能ではない」と。

人生を科学で解釈しちゃ、虚無じゃね?って。

 

「人間ってさ、所詮は粒子の集まりで、俺が考えていることも化学反応にすぎなくてさ、人生なんて無意味なんだよ」

という厨二発想になっちゃダメだよってこと。

 

ニーチェも同じようなことを言っていて、「じゃあ、その無意味な人生をどう生きる?」っていうのが、ニーチェの哲学の一端らしい。

無意味である、というのを前提として受け止めてるところが良いよね。

 

僕も「じゃあ、その無意味な人生~」って考えを言語化できずにいるところに、ニーチェの考えを知って、それに共感したのだけど、ニーチェって、すでに歴史上の人物じゃん。なんか遠いのよ。

マルクス・ガブリエルは、どっかで生きてる。同じ時間、同じ地球に。

その著者から、「人生を科学で解釈しちゃダメだよ」と言われて、「だよね!だよね!」と生きるのが楽になった。

 

 

 

こんなに長く書く予定じゃなかったんだけど。つかれたー。僕の言いたかったこと、しっかり言葉にできたかなあ。