三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

何度も通っている道がわからない

「方向音痴」という言葉があるけれど、僕のそれは何の欠如なのか分かりません。

 

知らない土地でも直感的に自分の位置、また方角が分かる人。

地図をしっかり読める人。

 

こういう人達のことは、方向音痴とは言わないですね。

そうでない人達のことを方向音痴と呼びます。

 

「僕、方向音痴なので」という台詞を日常で、特に仕事中に言わざるを得ない状況によくなります。

 

一回や二回通ったくらいでは道を覚えられないので、「僕の方向音痴は空間系の記憶力の欠如なのだろうか」と長らく思っていたけれど、「なんか違うかも」と最近明確に思いました。

 

ここでローカルな話を。

 

国道13号線を県南から秋田方面に北上すると、古川添交差点(こんな名前だったのか)、を先に通りますよね。ラウワンの交差点のことです。次に茨島交差点がくる。

 

僕はこの二つの交差点を何度も右折したことがあります。

 

でもこの間、この二つの交差点の区別がつかなくなったんですね。

目的地に行くにはどちらを曲がるべきか分からなくなったんです。

 

そのときは、僕に理解のある同乗者が助手席にいたので、「ほら、こうやって分からなくなるんだよ」なんて話していましたが、僕の性質を知らない人と一緒であれば「こいつやばくない?」と思われそうです。

 

「やばくない?」と思われたら恥ずかしいので、仕事などで誰かを乗せて運転するときは、知っている道でももう一度調べ、しっかりとシミュレーションしてから出発するようにしています。

社会人四年目あたりに、シミュレーションを怠ったせいで、何十回と通った道が分からなくなり、その地区に異動してきて一年目の上司に道を教えてもらったことがあります。

 

僕は同じ空間に人がいると、著しく処理能力が落ちるんですが(これはまた別の記事でお話したい)、誰かが同乗している場合、そのハンデも発動している可能性はあります。

しかし、道に関しては一人でも起きる現象なので、根っこは別にある気がするんですよね。

 

一度や二度、通った道を忘れるくらいなら、忘れっぽいのかなーで済みますが、何十回も通った道を忘れるのは記憶力の問題ではない気がするんですよ。

 

実は二十歳前後のとき、自分は発達障害なのでは、と疑っていた時期があります。

診断を受ける前に書籍等で調べてみると、どうやら違うと分かりましたが、おそらく標準の中の障碍寄りなのだろうと思っています。素人診断ですが。

 

僕が、「障碍」について興味があるのはこのためです。とても他人事だとは思えない。

社会保障が行き渡るためにはどこかで線引きが必要で、こっちが健常者そっちが障碍者と分ける必要はあると思います。

しかし、健常者と障碍者は同じ直線上にあって、その違いは、断絶ではなくグラデーションなのです。

 

「人の遺伝子の95%は正常にコピーされ、残り5%はコピーミス(遺伝子欠損)が起きている」という主旨の研究があるそうです。

僕はそれを、誰しもが先天的な障碍をもっている、と解釈しています。

(素人意見ですが、そのコピーミスが認知力や身体能力の向上に転がる場合もあると思います。)

 

その障碍は、消化器官だったり、神経系だったり、フィジカルな部分だったり。

僕の場合はその5%の一部が脳のどっかにきて、認知系に不具合が起きたのかな、と思っています。

 

障碍というのは、その時代、価値観によって変わるものです。

眼鏡が発明されるまで、近視は障碍でした。

今は障碍とは言いませんよね。

 

これらは僕がわざわざ書くまでもなく、いろいろな場で議論されていることです。

 

道を覚えれられないこと以外にも「これは障碍ではないがグレーゾーンだな」と思うことが何個かあります。

でも、「僕はこんなにも生きづらいんだ!理解して!!」というメッセージでこの記事を書いているわけではありません。

前述したとおり、誰しもが5%の障碍を抱え、それぞれの生きづらさとして表出していると思っているからです。

不便だなーと思いつつも、開き直っています。

 

知ってもらえる、それだけで楽になる。だから文章にしてみました。