僕はなにがしたいのか
自分が何をしたいのか、という問いは今ままで数えきれないほどしてきた。
人は得てして自分のしたいことが分からず、また、自分がしたいことに目を背けていることが多いからだ。このような、人類の不幸なデザインによって、したくもないことをしている場合も多い。
「全ての願いが叶ってもやりたいと思えることは何か」という問いが有効らしい。
エビデンスのあるものなのか、それとも、これって良いらしいぜ、程度の手法なのかは忘れてしまった。
有り余る金、小説家としての地位名声
それでもやりたいことは何か。
過去に何度もこの問いをした。
たとえそれで、「本当は小説が書きたくない」という答えだとしても構わないと思っていた。
そして今回も安心することになる。
僕は小説を書きたい。
もっとド純文学なものを書きたい。
今は、地方文学賞を中期ゴールに執筆活動をしているため、どうしてもド純文学が書けない。というか、個の放出を調整せざるを得ない。これは地方文学賞とはかくあるべき、という僕の考えに過ぎないのだが。
もちろん今も小説を書いているが、「ほんとにやりたいことはこれじゃないんだよなー」と思いながら書いているときがある。
ここらに関しては、中期ゴール達成後に抜け出す予定だが、まあ検討も忘れずに遂行していこう、という感じ。
もう一つ、それでもやりたいこと。
やったことがないことしたい。
答えとしては抽象度が高すぎるが、わりと普通の欲求である。
新規性とは刺激であり、人は常に刺激を求めている。
そして、こちらの欲求は今すぐにでも叶えられる。
早速この記事を書いた30日、記事をアップした31日のあいだに、やったことのないやってみたいことに着手した。
純粋に楽しい。
楽しいのだが、僕は何か楽しいことがあると、寝ても覚めてもそのことしか考えなくなる。
小説などそっちのけだ。
これは困りもので、じゃあやらずに我慢すればいいのかというと、それはそれでずっと気になってしまい、小説などそっちのけだ。
結論、早々にやってしまい飽きるのを待つか、落ち着くのを待つか、しかないのである。
ところで、「このブログで実現したいこと」にも書いたように、僕には、僕を知ってもらいたいというありふれた欲求がある。
リアルでのコミュニケーションが苦手なので、そのフラストレーションが溜まりやすいのだ。
文章による時間差コミュニケーションは比較すると、好き。比較するとマシ。
小説以外の文章を書くとき「僕は」という主語が多いのも、「自分のことを知ってもらいたい」という気持ちの表れだと思っている。
doppiocoffeefactoryで執筆していたとき(確か3年前)、社会での生きづらさの原因は、自己像と他人が思う(と僕が思っている)自己像とのギャップにあるのでは、と思い至った。
これは良いことに気づいた、と早速そのギャップを埋める作業を始めた。
職場で殺していた個を少しずつ解放し(最近はサボり気味…)、最近では、インスタグラムで今まで隠していた自己を意識的にさらしている。インスタの活動はデメリットも感じる…。
どうやらこの「ギャップがしんどい」、というのは普遍的な現象らしく、ベストセラー「選択の科学」で研究が紹介されていた。
その不幸は普遍的すぎるので、山奥で孤独に暮らすのでもない限り、むしろ「ギャップを埋める」営みに注力すべきだ、と書かれている。
僕が自力でたどり着いた答えとそのプロセスが、とっくに研究済みだったことを知る経験は快感である。
心理学や哲学の本を読む際の醍醐味だ。