散歩で見た小紫と枝垂れ柿と時間の哲学
生い、茂る小紫。
黄色い実をつけた枝垂れ柿。熟して落ちた赤い実。
隙間をぬう、調べようのない草木。
寒さに羽を休めるオレンジの蝶。
ひとときの日射に動きまわる羽虫と蜘蛛。
いつもの散歩コース。その一コマで、多様性を見た。
これが散歩の醍醐味である、と思いながら、「集中」という意識の状態、また「集中力」と呼ばれる、その名詞形について考えが浮かんだ。
ゆっくりと時間を過ごすときの、あのリラックス感。取り巻く世界が一変した感覚は、意識の解像度があがったものという持論をもっている。
A→Bの変化を、より繊細にとらえることができる状態にあるがゆえ、時間がゆっくりと流れるあの感覚を味わえるのだ。
普段は一コマで済む、A→Bの変化を三コマでとらえているようなイメージだ。
つまり、時間には多様性があり、よって時間は相対的である。
この考えと、アインシュタインの相対性理論と結びつけることで、僕は持論を科学の知識で補強しようと試みてきた。
「時間」という絶対的なものがあるのでなく、それは感じるもので、一人一人、その一瞬一瞬で、時間の流れは変わる。
それを科学で観測できた結果が相対性理論である、と解釈している。
ただの言葉遊びになるのかもしれないが、「時間」という言葉が「ときのあいだ」と書くのも、ある一点とある一点の差(あいだ)、それを認識する意識の解像度を連想させる。
「集中」としていると、意識が隅々までいき渡っている感覚がある。
普段はできないことができる。
AとA´の差がわかる。
散歩をしている最中、多様性を見たあの瞬間を、「集中していた」とは言わない。
でも、すごく似ていると思った。
現代で僕らが使っている言葉は、歴史に揉まれ一定以上の強度を持っている。
なので、たいていにおいて、それは理にかなったものになっているのだけど、誤解を生むようなものや、歴史の浅いまだ淘汰される前の弱い言葉も混在している。まさに玉石混淆。
「集中」という言葉も、ある側面から見た場合にはぴったしであるが、別の側面から見ると違った様相に見えてしまい、本質が分かりづらくなっているのではないだろうか。
細部まで見える、分かる、ようになる状態を「集中」と名付け、その力を「集中力」とした。
Aに対して、その”中”心に意識を”集”める感覚だったのだろう。
細部まで見える、分かる、というのを、僕は「意識の解像度があがった」と表現した。
それは、中心に意識を集めた、からではあく、意識そのものの力が一時的にあがったおかげで、Aの細部が見え、分かったのだ。
「意識の解像度があがった」結果、Aの中心に意識が集まり、細部が見え、分かった、とも言える。
とまあ、あの一瞬に生まれた感覚を起点に、言語化し考えを推し進めたが、
小紫に集中した直後、枝垂れ柿に集中し、名を知らぬ草に集中…
という、連続を経験しただけなのかもしれず、
その移ろいを可能とする状態が「解像度の高い意識」であり、その意識を使用することを「集中する」とも言えるのではないだろうか。
ちゃんちゃん。