三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

テレビを見ないと”大きな物語”が失われる

最近、テレビを見ない人が増えています。

くだらないとか、おもしろくないとか。

ネガティブな意見もあれば、自然と見なくなった、という人もいます。


ですが、僕は、今でもめちゃくちゃおもしろいと思ってます。

 

NHKのクリエイティブな番組は刺激になりますし、民放のバラエティもおもしろい。
だって、頭の良い人たちが、消費者のツボをつくように作っているわけですからね。

僕は昔からテレビっ子で、中学生の頃、人よりもいろいろなCMを知っていることが判明してから、「自分はテレビっ子なんだ」と思うようになりました。
家にいるときはずっとテレビを見ていましたし、中学の頃には深夜のバラエティにハマっていました。「ぷっすま」とか!

当時の知識の大半は、テレビを通じて得たものばかりでした。

社会人になり一人暮らしを始めてからは、見ている時間こそ減ったものの、NHKと朝のニュース番組は見ていました。

批判的な文脈で語られることの多いゴールデンタイムのバラエティ番組も、ついつい見ちゃうこともありました。

ところが、世の中にはテレビよりもおもしろいことがたくさんあるのです。

年を重ねるにつれ、テレビの電源がONになっている時間は減っていきました。

それでも、がんばって朝のニュース(めざまし派です)を見続けたのは、仕事の場での会話のためでした。

ニュースでやっていた出来事そのものについての会話はもちろんですが、その出来事を知ってる上で通じる冗談など、テレビを見ていなければついていけない場面が多々あったのです。

特に、年配の方の会話にはこれが多い。


仕事の飲みの場で初対面の年配の方に、一人暮らしをしている話をしたら

 

「部屋さクーラーボックス置いてねえべな」※秋田弁です。

訳「まさか部屋にクーラーボックス置いてるわけないよな」

 

貧相な一人暮らしだから冷蔵庫買う金もないよな、っていう冗談か?
それとも、会話のなかでクーラーボックスの話したっけ。それに絡めた冗談?

発言の意味を考えぐるぐると頭をまわしました。

数秒考え、ちょっと前に起きたニュースを思いだしました。

思いついた例が暗いニュースで申し訳ありませんが、2018年?に座間?のアパートで遺体をクーラーボックスに入れていた事件がありましたよね。

その事件に関する冗談だったのです。

朝のニュースを見ていなければ、笑って誤魔化すことしかできなかったでしょう。

この他にもニュースを見ていなければ意味が分からない会話が、しばしば繰り広げられるので、朝のニュースはかかさず見ていました。

ただテレビをつけているだけなので、特に負担にもならなかったですしね。


ですが、2019年になり、僕はテレビを処分しNHKを解約しました。

ちなみに、解約が大変との噂のNHKですが、お問い合わせの電話は一瞬でつながりました。かなり待たされると聞いていたので拍子抜けしました。


大人はよく「ニュースを見ろ」「新聞を読め」と言います。

就活のときにもそう指導されたものです。

一般常識を身につけるため、世の中の流れを知るため。

それらしい理由はあげられますが、実はただの娯楽なんじゃないかな、と思います。

正直、どこで何が起きたなんて、自分の人生に活きますか?

他人事であれば、どっかで何かが起きている、というのは単なる娯楽と成り下がります。たとえ、そのニュースが痛ましいものだとしても、娯楽として消費される瞬間があると思いませんか?

 

「そうだけど、別に知ることは悪いことじゃないよね」


これが大間違い。

 

単身の交通事故のニュースの後には、同じような単身の交通事故が増え、興味深いことに、複数人を巻き込んだ交通事故の後には、同じような複数人を巻き込んだ交通事故が増えるというデータがあります。

心理学的なお話はここでは控えますが、ニュースを見る行為が全く無害ではないことを示しておきます。

有意義な点をあげるとすれば、「ニュースを見ろ」「新聞を読め」というのは、「共通の話題を仕入れ、コミュニケーションに活かせ」という目的を見据えたアドバイスとも考えられます。

人間関係を円滑に進めるうえで、会話、というのは重要な行為です。

共通の話題がゼロだと、初対面で会話を続けるのはキツイですよね。

そんなとき、「昨日のサッカー見ました?」「最近は景気が悪いですね」という、時事はテレビを見ている人同士であれば、話の起点になりうるでしょう。


では、多くの人がテレビを見なくなるとどうなるでしょう。

共通の話題がなくなってしまいます。

この現象を社会学者の宮台真司さんは、島宇宙と呼び、共通の話題のことを指して大きな物語と呼んでいます。

テレビを見ない人は、インターネットを利用し、自発的に情報にアクセスするだろうと思います。

例えば、SNS

情報の仕入れ先として、ツイッターを利用している人がいたとします。

ツイッターでは興味のあるアカウントしかフォローしませんよね。

あるときAさんの見ているツイッター界隈であることが話題になりました。
次の日、同じくツイッターを利用しているBさんに、そのことについて話をするとBさんは、その「あること」を知らないそうです。

AさんとBさんでは、フォローしているアカウントの属性が違うんですね。

今度はCさんに話を振ると、Cさんは「あること」を知っていて、話が盛り上がります。
AさんとCさんの趣味は似ているため、フォローしているアカウントの属性が似ているのです。

こうして、ツイッターという同じSNSで情報の仕入れていても、流れてくる情報は人によって違ってきます。

住んでいる世界が違う、とも表現できるでしょう。

今までテレビという大きな世界にみんなで住んでいたのが、これからは、世界がどんどん細かく個別的になっていくのです。

そして、テレビを見なくなっていく僕たちは、”大きな物語”の存在を忘れ去り、たくさんの”小さな物語”のなかで暮らしていくのです。

この流れに、ついノスタルジーを感じてしまいますが、いろいろなものが個別化されていくのは分野を問わずこれからのトレンドであるように感じます。

yuyakefish.hatenablog.com


個人的には、テレビを処分したことでNHKの受信料(月2000円程度)が浮き、読書の時間も増えたので、今のところは嬉しいことしかありません。

元々、会話は苦手なので今更困るってことでもないし、逆に「僕テレビ持ってないんですよね」
というのを話題の一つにしていこうと思っています。