三度の飯と、考えごと

小説、ボルダリング、コーヒー、農業。

「幸福の民主化」が、はじまっている

あなたが今、感じている幸福は、国が運用している国営化された幸福かもしれません。

 


ここで民主化とは、「僕らのものになった」という意味で使っていきます。なので、本来の意味とは違うかもしれません。

 

まず、「民主化」されたものの例をいくつかあげていきます。


今は当たり前のように「僕らのもの」だった何かが、「僕らのもの」ではなかった時代に思いをはせてみてください。

 

今までどんなものが「民主化」されてきた?

民主化されて久しいのは、「知識」でしょう。
基本的には、欲しい「知識」は「自ら」アクセスできる環境にあるので、「知識は僕らのもの」と言えます。

 

インターネットができるよりもっと前、14世紀にイギリスで活版技術が確立される前、本はすべて手書きでした。本は「パッケージされた知識」です。

 

本を所有しているのは教会や富裕層のような一部の人々のみ、そんな状況ですので字を読める人もわずかでした。

 

知識の伝達手段は口頭だけ。努力次第ではたくさんの知識を得られたでしょうが、本という形にされ、一部の人々に囲いこまれた知識にはアクセスできなかったはずです。

 

なぜ、わざわざ囲い込む必要があるのでしょうか。それは、知識には価値があるからです。

 

特権階級の人々が、自分たちだけで知識を独占しようと思うのは、しょうがないことかもしれません。

 

そんな中、活版印刷というテクノロジーによって、「パッケージされた知識」を大量生産できるようになりました。価値あるものは瞬く間にひろまります。

 

その拡散の力の前には、知識を囲いこもうとする力は無力だったでしょう。

 

こうして「知識は民主化」されました。

 

現代に民主化されたものは?


時を経て現代。
僕の体感では、様々なものの民主化が進んでいるように感じます。しかも、どんどん加速しているようです。

 

シェア、オープンソース、相互扶助の思想がテクノロジーによる下支えを得て、僕らの常識を更新しようとしています。国や大企業が所有していたものが、どんどん「僕らのものになって」きています。

 

2016年~2018年半ばあたりに第一次ブームが訪れた仮想通貨もその一部です。

 

通貨というのは、国によって価値が保証され、国によって管理されているものです。
※正確に言うと中央銀行なのかな?

 

発行権は国にあり、僕ら個人が発行することはできません。そもそも、個人が発行するという発想が生まれることもありませんでした。

 

ところが、仮想通貨によって、通貨は国だけのものではなくなりました。


ブロックチェーンというテクノロジーに価値を保証された通貨を誰もが発行できるようになったのです。

 

僕が仮想通貨(トークン)を発行し、流通させることもできます。
※日本の法律ではNG?

 

テクノロジーによって、通貨さえも「僕らのもの」になりました。

 

次に民主化されるもの


次に民主化されつつあるものは何だと思いますか?

 

僕が最近、たびたび感じているのは「幸福の民主化です。

 

今まで述べてきたロジックに沿うと、「いやいや、幸せは僕らのものだよ。だって自分の幸せは自分で決めるものじゃないか」と思うことでしょう。

 

それは思いこみです。

 

と言うより、そう国に思いこまされているのです。

 

人の価値観というのは案外簡単に変わっていまいます。

 

価値観の根底には文化が流れています。
かつてのヨーロッパでは、ストッキングにハイヒール、カツラが男らしさの象徴だった時代があります。

 

当時の文化では、それらがかっこいいとされていたのです。

 

今では考えられませんよね。

 

現代においても、地域によって文化は異なり、その文化によって形づくられる価値観は様々あります。

 

美的感覚も幸福も不幸も、文化の数だけ種類があるのです。

 

今の日本はどうでしょう。

 

結婚するのが幸せ。

お金もちになるのが幸せ。

たくさんの友達に囲まれるのが幸せ。

 

このように、同じ日本のなかでも、細かく見ていくと、人の数だけ幸福があるように感じます。

 

しかし、多くの現代人が「自らの幸福」だと思っているその根っこには、国の策略による影響があるのです。

 

国は経済を潤し、発展しなければいけません。

 

高度経済成長期、国は自らの使命である「発展」のためにある戦略をとりました。

 

マスメディアによる「幸福の国営化」です。

 

「幸福はこんなだよ!」と、マスメディアを使って、同じ形になるように誘導したのです。その際、幸福にはあることが紐付けられました。

 

「消費行動」です。消費行動は経済発展のスタートとなります。

 

結婚するのが幸せ!
この幸福の中には、婚約指輪、結婚指輪、結婚式、新婚旅行、マイホーム。と、たくさんの「消費行動」が内包されています。そして、次代の消費者である「子供」を増やすように仕向けられています。

 

お金もちになるのが幸せ!
これは、お金もちを目指すこと自体が国の発展につながるのもありますが、要はお金もちになってお金をたくさん使ってもらうための幸福です。

 

たくさんの友達に囲まれるのが幸せ!
「消費行動」が幸福とすり込まれた人々同士、より仲良くなってもらうことで、その考えを強化させるための幸福です。

 

こういった話をしていると、まるで国に洗脳されているようで嫌な感じがしますが、僕はそうは思いません。

 

国は国で発展するためにしていることなので、僕たち国民のためでもあるのです。

 

少し話はズレますが、そもそも国と個人、という対立構造で考えるのがおかしいと思っています。
「国」というものを分解すると、最終的に「個人」が要素として洗い出せます。
つまり、「国」は「個人の集合体」なのです。ところが、中央集権的に国を統治しているせいで、自分たちが構成員である自覚がうすれてしまっているように感じます。
この問題は、今後テクノロジーで解決していくのでは、と思っています。もしくは、問題ではなくなるか。
僕は、本文でもふれたブロックチェーンを始めとする分散的なテクノロジーにそれを期待しています。

 

 

どうして「幸福」は「僕らのもの」になりつつあるのか

 

話を戻します。

 

ではなぜ、「幸福の民主化」が起きつつあるのか。

 

「国営的な幸福」が時代とともに運用が難しくなってきているからです。

 

今、マスメディアの力は弱まっています。

 

インターネットが普及し、SNSが生まれ、TVを見る人がずいぶん少なくなりました。

 

今まではTVを使って垂れ流していれば、受動的に情報を摂取していた個人が、自ら情報を得るようになりました。

 

そういった世の中になれば、国によるコントロールは難しくなるでしょう。

 

国がつくった幸福(消費行動)の導線がとぎれ、戦略が機能しなくなります。

 

元々、人の数だけある価値観です。誘導がなくなれば「あれ、俺の幸せはコレだわ」と、本当の意味での「自らの幸福」に気づく人々が現れてきます。

 

2019年現在、若者とよばれる層では「自らの幸福」に気づき始めている人が多くなってきているように感じます。

 

 

こうして「幸福」は「僕らのもの」になり、「幸福の民主化が起きていくのです。

 

じゃあ国は発展しなくなっちゃうんじゃ…


さきほど、「幸福の国営化」に対して、
”まるで国に洗脳されているようで嫌な感じがしますが、僕はそうは思いません。国は国で発展するためにしていることなので、僕たち国民のためでもあるのです。”
と言いました。

 

では、発展するために行われた「幸福の国営化」が終わると、発展が止まり国も国民も困るのでは?

 

当たり前ですが、そんなことにはなりません。

 

国による「計画的な発展」はできなくなりますが、発展が止まるわけではありません。

 

僕らが一人一人、「自らの幸福」を求める営みが発展につながるでしょう。

 

そのとき国は、その営みを促したり、マスメディア以外の手段で方向性を示したりすることで国の発展につなげなければなりません。

そうなったとき国は、今の国とは違う概念になっていることもあり得るでしょう。

 

「幸福の民主化」で起きる良いこと


さいごに、「幸福の民主化」が実現されたとき、どんな良いことが起こるのでしょうか。

 

僕は、幸せな人が増えると思います。

 

今までは国によって、幸福は画一的な型にはめられていました。

 

その画一的な幸福と、自らの幸福が芯から合致する人であれば、幸せに過ごすことができたでしょう。

 

ですが、「なんか違うなあ」と思いながら、それを幸福だと信じて暮らしていた人もいたと思うんです。もしくは、その幸福が実現できず、自分は不幸だと思いこんでいた人もいたでしょう。

 

これからは幸福の基準が人それぞれになります。人の数だけ幸福があって、それを実現する手段が人の数だけ生まれます。

 

もうすでに、僕らが暮らす日本は、そんな多様な幸福の世界に足をふみいれているのです。