映像技法を文学に落としこむ 【空間的余白の不安】
丸山健二さんのデビュー作であり、芥川賞受賞作「夏の流れ」の単行本に収録されている「雪間」
50年前に書かれた作品です。
舞台は当時の日本。忠夫という名前の小さな男の子が主人公です。
おばあちゃんが死んでしまったので、お母さんと2人で少し離れたおばあちゃんの家に向かいます。
すでに親戚が人たちが集まっているなか、忠夫は冷たくなったおばあちゃんと対面します。
おじいちゃんは母屋とは別の離れに住んでいて、忠夫はおじいちゃんとうさぎを狩るのが好き。
徹底した行動主義の描写で心理描写は一切ありません。
説明的な文章も一切ありません。
僕の文体も丸山健二さんから影響をうけています。(丸山先生ほど徹底していませんが)
本題に入ります。
亡くなったおばあちゃんと対面した男の子は、イマイチ死というものを理解していませんでした。
対して、男の子のお母さんは、実の母が亡くなったわけですから、当然悲しんでいました。
それから男の子は1人、離れのおじいちゃんのとこに行くために母屋を出ようとします。
そこでこんな一文が入ります。
忠夫は土間を出る時、ちょっと鳥かごのウソを見た。
描写としては、ただ鳥かごを見ただけ。
ですが、僕はそこで死の不気味さや恐怖を感じました。
なぜか、を考えてみたんですが、確かに感じるのにその理由がわかりませんでした。
先月に「雪間」を読んでから、頭の片隅に置いてあった疑問ですが、2日前に氷解しました。
あの描写を読んだとき、頭に浮かんだのは、昔ながらの日本家屋の土間は広さ、雪がこんこんと降る寒さと薄暗さ、でした。
土間の奥にある鳥かご(広さの描写はないのですが、土間というだけで自然と距離を想像してしまう。くそ上手いっすね)を見ることで、その空間の大きさと薄暗い雰囲気が読み取れ、それが死の不気味さと恐怖を思い起こさせている、ということまでは想像できたのですが、その理屈が分からない。
理屈が分からないと、書き手としては再現性が低い。
ホラー映像の技法として、引きで画をとり、画面に余白をつくることで鑑賞者に不安を感じさせるという技法があります。
鑑賞者を前提として映像をつくるので、映像というの画面いっぱいを使うのがデフォルト。
それなのに、画面に余白があるいう異質の状態が気持ちわるい。
余白を埋めたくなって落ち着かなくなるそうなんですね。
それが不安につながる。
これには、人の心理、という理屈があります。
この効果を文章読むことで体感したのだと思いました。
まず、鳥かごを見るという行為で空間の広さ(余白)を想起させられます。
しかも、その余白に、薄暗さ、日本家屋、外は雪、という情報が加われば、それはもう不気味ですよね。
直前におばあちゃんの死体と対面したことを考えれば、その不気味さと死は自然とつながってしまう。
映像技法を小説に活用する試みはありふれていますが、こんなパターンもあるんです。
勉強になりました。